中国の覇者「毛利元就」 その9
『主家殺しの陶晴賢』
元就は大内氏に属して、その存在を大きくしていったのですが、陶晴賢の逆心によって大内義隆が殺された
のは1543年9月1日、元就55歳の時であった。
三本松城(津和野城の旧名)*津和野城は6月30日に登城しましたが、まだ記事にできていません。

陶は、義隆の姉が豊後の大友家に嫁した生んだ義長(大友宗麟の弟)を迎えて、大内家の当主として立てて
いたが、一切の権力が陶にあったことはいうまでもありません。
元就はこの事変に際して、非常に陶の不忠を怒った。ということになっていますが、形に表れるところでは、万
事、陶の指示を仰いで、各地の戦に出て、おおいに功績を立てています。
3年ほどが経ち、アンチ陶派である石州津和野の三本松城主・吉見正頼と密使を交換して、反陶の兵を挙げ
ることになった。
「吉見が石見方面に事を起こせば、必ず陶は石見に出兵するであろうから、元就は芸州方面で挙兵し、陶を
して進退を迷わせるという策」
この策に従って、元就は長子・隆元、次男・元春、3男・隆景を率いて、厳島の神領である草津、五日市、二十
日市のあたりに兵を出して、陶方が驚いて繰り出した兵を一戦に撃破し、付近の城々を占拠しています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (6月29日の問題)
正解:民間企業
中津城は奥平家子孫が所有されていましたが、維持が困難であるとの理由で2007年に売却され、現在は福祉事業を営む民間企業が所有しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
元就は大内氏に属して、その存在を大きくしていったのですが、陶晴賢の逆心によって大内義隆が殺された
のは1543年9月1日、元就55歳の時であった。
三本松城(津和野城の旧名)*津和野城は6月30日に登城しましたが、まだ記事にできていません。

陶は、義隆の姉が豊後の大友家に嫁した生んだ義長(大友宗麟の弟)を迎えて、大内家の当主として立てて
いたが、一切の権力が陶にあったことはいうまでもありません。
元就はこの事変に際して、非常に陶の不忠を怒った。ということになっていますが、形に表れるところでは、万
事、陶の指示を仰いで、各地の戦に出て、おおいに功績を立てています。
3年ほどが経ち、アンチ陶派である石州津和野の三本松城主・吉見正頼と密使を交換して、反陶の兵を挙げ
ることになった。
「吉見が石見方面に事を起こせば、必ず陶は石見に出兵するであろうから、元就は芸州方面で挙兵し、陶を
して進退を迷わせるという策」
この策に従って、元就は長子・隆元、次男・元春、3男・隆景を率いて、厳島の神領である草津、五日市、二十
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正解:民間企業
中津城は奥平家子孫が所有されていましたが、維持が困難であるとの理由で2007年に売却され、現在は福祉事業を営む民間企業が所有しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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