中国の覇者「毛利元就」 その12
『第二次月山富田城の戦い』
1556年以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、1560
年にその尼子晴久が死去する。
晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男・尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に
破棄し、1562年より出雲侵攻を開始。(第二次月山富田城の戦い)
月山富田城 (月山富田城登場記は「こちら」です。)

これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城に籠城し尼子十旗と呼ばれる防
衛網で毛利軍を迎え撃った。
1563年、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事
に成功する。
しかし、9月1日に嫡男・隆元は尼子攻めに参加する途上、毛利氏傘下の国人である備後の和智誠春からの
饗応の直後、安芸の佐々部で急死した。
元就は大内氏に従って敗北を喫した第一次月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張
り巡らした。
当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。
これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと平行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離
間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。
義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。
この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。
1566年11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。
こうして元就は一代にして、中国地方8ヵ国を支配する大大名にのし上がったのです。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:大寧寺の変
大寧寺の変は1551年8月に起こった政変で、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変です。
この事件は、後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
1556年以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、1560
年にその尼子晴久が死去する。
晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男・尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に
破棄し、1562年より出雲侵攻を開始。(第二次月山富田城の戦い)
月山富田城 (月山富田城登場記は「こちら」です。)

これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城に籠城し尼子十旗と呼ばれる防
衛網で毛利軍を迎え撃った。
1563年、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事
に成功する。
しかし、9月1日に嫡男・隆元は尼子攻めに参加する途上、毛利氏傘下の国人である備後の和智誠春からの
饗応の直後、安芸の佐々部で急死した。
元就は大内氏に従って敗北を喫した第一次月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張
り巡らした。
当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。
これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと平行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離
間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。
義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。
この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。
1566年11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。
こうして元就は一代にして、中国地方8ヵ国を支配する大大名にのし上がったのです。
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≪前回の解答≫
正解:大寧寺の変
大寧寺の変は1551年8月に起こった政変で、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変です。
この事件は、後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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