征夷大将軍 『徳川家康』 その6

『松平家、今川家に服属』

苦難の間にも、大蔵(阿部定吉)は主家回復の同志を集めることに努力し続けたが、どうにもはかばかしく

なく、ただ一人駿河に行き、今川家の援助を乞うた。

今川義元はあわれんで

「それは気の毒なこと、松平家はわが家と旧好のある家である。先年、東条持広殿から頼んで来ている。

仙千代(家康の父)殿をお連れしてまいるがよい。わしが引き受けてめでたく国元に帰れるようにして上げ

るであろう」

と、頼もしくも引き受けてくれた。

戦国無双・今川義元(1519-1560年)
im.今川義元 002

大蔵は早速、遠州に帰り、広忠(家康の父)の供をして駿河に行く支度にかかった。

同時に大蔵の弟・定次やその他の同志らは三河に行って、松平一族やゆかりのある豪族や旧臣らを説い

て味方に引入れた。

大蔵は広忠を奉じて駿河に行ったところ、義元はしばらく手元に留め置いた後

「ここを足掛かりにして三河の故地(こち)を回復するよう」

と言って、今川家の持城であった遠州牟呂の城を広忠に与え、遠州の今川方の豪族らにも助勢するよう伝

えたので、松平家の旧臣らも志を運ぶ者は来て従ったという。

義元がここまで広忠に肩入れしたのは、もちろん単なる義侠心からではありません。

世は戦国です。

一文の得にもならないことを他人のためにしてやるほど甘い気風はありません。

その上、今川家は足利の一族で、当時世間では

「京の将軍家に血統が絶えたら三州の吉良家から入って継ぎ、吉良家に人がいなかったら駿河の今川家か

ら入って継ぐことになっているそうな」

とも言われていたほどの家柄なのです。

あたかも足利将軍の威が衰えている時代、中央に野心がなかろう筈がなく。西への道を開くために、広忠と

その家臣らが三河を回復しようとの熱望に燃えているのを利用したことは明らかでしょう。

徳川家側の記録にはありませんが、この時から松平家は今川家に服属したと見るべきなのでしょう。

この時、広忠11歳。1536年9月であった。



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日曜日、pigletは毎月恒例の「歯切り」でした。
pig 20140729



『戦国クイズ』


≪前回の解答≫
正解:広大な外郭
みんな小田原城の特徴ですが、小田原城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいたそうです。

≪本日の問題≫


                                  <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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海道一の某

こんばんわぁー(*´∀`)ノ

私の興味が義元公に向いてしまった(笑)

決して凡将では、なかったという再評価によって…
某有名ゲームでも、お公家顔からやや精悍な武将顔になりつつあったり♪

この先も楽しみにしてますねー☆

Soive さま

Soiveさん、こんばんわ~(^O^)/ 

暑い、あつい!`・ω・´

夏のない国に行きたいってばっ○゚ε゚○


> 決して凡将では、なかったという再評価によって…
> 某有名ゲームでも、お公家顔からやや精悍な武将顔になりつつあったり♪

ふむ、ふむ、

義元くんと、蹴鞠するのもたのしいかも・・・。

いや、ソイちゃんと遊んだが楽しいよね♪


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