征夷大将軍 『徳川家康』 その9

『お大の深い思慮』

お大(ひろ、家康の母)が離縁された時のこととして、こんな話が伝わっています。

阿部定次、金田正祐ら50人の武士に護衛されて岡崎を出たお大は、やがて刈谷境まで来ると、人々を輿の

そばに呼び思い入った様子で言った。

「主命とは言いながら、大儀でありました。ついては思う子細がありますれば、ここでわたしを捨ておいて、急

ぎ岡崎に帰りくれますように」

お大が離縁後住んだ屋敷の碑(刈谷市)
od.お大屋敷碑

人々は驚いて

「なぜさようなことを仰せられます。拙者どもは刈谷のお城までお送りして行くようにと、殿に仰せつけられて

います。」

というと、お大は首を振り

「兄下野守(信元)は、ひとかたならず乱癖の強い者である故、そなたらが刈谷まで行けば、いちいち切って

捨てられるか、髪を剃って追い返えされるかでありますでしょう。わたしは不縁になって実家に帰される身で

はありますが、竹千代殿とは実の母子でありますし、兄もまた血の続いた伯父甥であります。いつかは両家

は和睦が出来るものと信じています。しかし、今、兄に短慮なことをさせては、将来の和睦の妨げになりまし

ょう。ともかく、わたしを捨ておいて、急ぎ立ち去りくれますよう」

と、涙ながらにくどいた。

供の武士らはお大の深い思慮に感激の涙で了承し、土地の農民らを呼び出し、このお輿を刈谷に送り奉れ

と申し含めた後、お大に暇乞いして一旦立ち去りはしたが、不安なので道に沿う山林の中に身を潜めつつ、

輿を送って行くと、ほどなく刈谷から30人ばかりの人数が騎馬で駆けつけて来た。

馬から飛んで下り、輿の前にひざまずき

「お送りの岡崎衆はいないのでございますか」

と、声も荒らに言う。

「岡崎の者どもは、百姓に輿を渡して引き取りました。もう岡崎に着いた頃でありましょう」

「さても無念かな。お送り申して来た岡崎の侍ども、いちいち討取れとの殿の仰せでありましたのに」

と言いながら羽織を脱ぐと、下には皆具足を着けていたという。

お大は後に、尾張知多郡阿古屋の領主・久松定俊に再嫁しましたが、その子供らに対しても、家康は終生か

わらない愛情を持っています。幼くして別れた母に対する慕情なのでしょう。

伊予松山の久松松平家が、その後なのです。




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sa-ko 20140804


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:80日
石垣山城は、石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であった。約3~4万人を動員し、80日で構築されています。
小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たしたといわれます。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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