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征夷大将軍 『徳川家康』 その19

『ゆがみはじめた今川氏の弓矢』

出かけが多く、家康さんの記事が疎かになってしまいましたので、 少し綴ってみたいと思います。


元信(家康)はすぐには駿府に帰らず、しばらく岡崎に止まっていたが、今川家から来ている城代の山田

新左衛門に向って、

「われら若年者でござれば、本丸には従前通りご辺居られたし、われらは二の丸に居て、諸事ご指南仰ぎ

とうござる」

と言って、本丸に入ることを遠慮したので、報告を聞いて義元は大いに心証をよくしたという。

今川義元(1519-1560年)
im.今川義元 001

元信の用心深さは無類のものがあり、後年には一層強く表れてくる性質であるが、この若い時代から用心

深かったのです。

元信は翌1557年の春、駿府に帰ったが間もなく「元康」と改名した。祖父・清康の武名を慕ったのです。

1558年、元康は17歳となった。この年の春、また義元の許しを得て岡崎に帰ったが、間もなく三河の諸

豪にして織田家に心を通じている者ども数名を討って、みな勝利している。

これは元康の初陣であったが、用兵の巧みさに家臣ら皆おどろいたという。

義元は勝報を聞いて、松平家の旧領のうち山中の300貫の地を返し、刀も贈ったという。

この時の帰国は一時のことではなく、ずっと岡崎にいる許可を得ていたので岡崎の老臣らは駿府に行って、

「元康すでに帰国いたしました上は、所領をもとのように返し下され、また今川家より派遣のお役人らもお引

き取り下されとうござる。もちろん、岡崎の家老らから差し出しています人質どもは従前通り留め置き下さり

ますよう」

と願い出たが、義元は渡そうとしない。

「余(よ)は近年のうちに尾州へ発向する心組みでいる。領地の儀は、その節、境目を正して引き渡すであろ

う。それまで待つよう」

と答えたので、みな仕方なく帰り、憂憤を押えて月日を送ったという。(実記)

太原雪斎が生きていたら、こんなへたな欲をかかず、返すものは返して、岡崎の士心を繋いだと思われます

が、その雪斎は3年前に死んでいたのです。

今川家の弓矢は雪斎が死んだ時からゆがみ始めたのです。




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いつもありがとうございます。


pig 20140825


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:名護屋城
名護屋城は、秀吉が大陸への進攻を企図した際、前線基地として大掛かりに築城した城です。
名護屋城には五重天守や御殿が建てられ、城の周囲には城下町には人口10万人を超えるほど繁栄していたそうです。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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辛抱無理

こんばんは。
家康の性格は若い頃からいい方に作用したのですね。落ちぶれてたらただの面倒な人…?

pigletちゃん、だから、お姉さんがバリカンで…。

つねまる さま

つねまるさん、こんばんわ~

落ちぶれてたらただの面倒な人…?

いい言葉です!
力がなかったら、ただ厄介なおっさん。
そして、長生きしたから死にそこないのジジイ。

こんなこと言っていると、槍が飛んでくるかも・・・。


> pigletちゃん、だから、お姉さんがバリカンで…。

バリカン持って、新幹線でいきま~す。
ところで、うさぎの乗車運賃はいくらなんだろう・・。
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