征夷大将軍 『徳川家康』 その33

『三河一向一揆の勃発』

事は家康に報告され、家康も怒った。

この時、22歳という若さです。用心深いこと無類の男でも、カッときたのでしょう。

あるいは当時の一向宗の力が領主権を凌ぐほどに強力であることをかねてから安からずと思っていたのかも

知れません。

三河一向一揆
mi.三河一向一揆

この時代の一向宗の門徒らは領主への年貢は怠っても、本願寺への献金は必ずしたといいますから、この宗

門を領内に禁断にした大名は少なくなかったのです。

一向宗を禁断にした主な領主は、小田原の北条氏、越後の上杉氏、薩摩の島津氏、人吉の相良氏などですが、

他にも多くいたのでしょう。

「きびしく糺明(きゅうめい)せい」

と家康は申し渡した。

これが寺方に聞えたのですからたまりません。

たちまち、わっと一揆が起こった。

家康の家臣らにも熱心な門徒が多数いて、これも一揆に加わる。

門徒でなくても乱を好む浪人や無頼の徒らも加わる。

力をもって圧伏させていた旧豪族の者、かねて不満を抱いていた松平一族の者で立ち上がる者がいる。

なかでも痛かったのが、三河の守護大名であった吉良一族が立ち上がったことです。これは古い権力者だけに、

人々の思い入れが深い。

もちろん、寺や旧豪族らは、家康の敵国である今川家と連絡を取ったが、家康にとって幸いだったことは、アホ

な氏真が例によって何を戸惑いしたのか、立ち上がらなかったことです。

しかし、とにかく大変なことになった。

「上宮寺、本証寺、勝鬘寺、善秀寺などは元来の大寺、しかも福地ゆえ、武具・兵糧・玉薬まで十分にたくはへ

て」

と、事を起こしたと改正後風土記は伝えます。


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いつもありがとうございます。


sakura 20141007


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:本多正信
家康の家臣の本多正信(後の家康の参謀)や蜂屋貞次(徳川十六神将)や夏目吉信(三方ヶ原戦役で家康の身代りとして討死)が参加するなど、内紛の様相も呈し、一族の間で門徒方と家康方に分裂するなど、主君に対する踏み絵にもなっています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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政教分離

こんばんわぁー(*´∀`)b

何気に…家康公の最大のピンチは…
この一向一揆だったのかなぁ~?と思ってます。

そして…大高城の兵糧入れでも武略のお手並みが見て取れますが…
一向一揆の鎮圧では、大阪城のお堀を埋めた時と同種の詐術的な方便が見れますよね…

やっぱ…若い頃から家康公はただ者ではないようなヽ( ゚Д゚)ノ

んで…信長公との同盟って、地理的要因も大きいけれども…
政教分離を進めて大名の専制力を高めるという政治方針の一致も大きかった気がしますね☆

Soive さま

Soiveさん、おばんです-_^

> こんばんわぁー(*´∀`)b

そう。
三河一向一揆は、家康さんの一大ピンチだったのでしょうね。
家臣団の半数が、門徒方に見方したとかいうし困ったでしょう。


> 政教分離を進めて大名の専制力を高めるという政治方針の一致も
大きかった気がしますね☆

なるほど、さすがSoiveさん。
この時代の僧侶は、顕如に代表されるように坊さんが戦国大名そのもの
だったようだし・・・。

Soiveさんの知略をもてば、女性でも下克上ができたのかも・・・。
なーに、「今でも大丈夫」だって、聞こえた気がしましたよ^^


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