我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その34

『毛利の大軍に総敗軍』

鹿介らは様々な障害もあり富田城の回復もできず、また伯州もわずかに西辺に入っただけで、早くも半年が

過ぎていた。

貴重な半年であったのです。

大友宗麟(1530-1587年)
oo.大友宗麟 006

毛利家は九州から撤兵したばかりか、大友宗麟の命を受け、3千の兵をもらって防長地方を撹乱していた大

内氏の一族・輝弘を討ち、すっかり態勢を整えてしまった。

1570年1月16日、毛利軍は元就の嫡孫・輝元を総大将とし、吉川元春・小早川隆景・宍戸隆家ら総勢1万

3千が陸路を、別に児玉内蔵大夫が水軍2百余船を率いて海路から向ってきた。

陸軍は石州路の諸城を落しながら出雲に近づいてきたのです。

鹿介は石見方面に出しておいた忍びの者どもの報告によって、毛利軍が迫りつつあることを知ったので、立原

らと軍議して富田城の南三里の川沿いの山村である布部村(今の広瀬町布部)でこれを食い止めて、富田に

入城させない計画を立て、尼子勝久は末次城(後の松江城)に止まり、諸所の城や砦においた兵を終結させ、

鹿介・立原らが率いて布部に出て布陣した。

兵数約6千7百、毛利勢は2月13日に布部に到着、戦いは14日に行われた。

この戦いは非常な激戦で、尼子方はよく戦ったが衆寡の勢いはついに敵せず、総敗軍となり、尼子方の勇将

が多く討死しています。

横道秀綱も討死した。

横道は重傷を負っているところを10日ばかり前に毛利方に寝返って、今日の戦に毛利方に属して出て来た姪

婿の中井善左衛門に討たれたのです。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


pig 20150121


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:冑にちなむ
山中幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。
このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと鹿の角の脇立がついていたため、冑(かぶと)にちなんで名前を鹿介と改めたという。



                                       <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

こんばんは♪

たくさんの人が討死したんですね。
多くの人はまだ若かったのでしょうか?
厳しい時代です。

ハーモニー さま

ハーモニーさん、こんばんわー♪

もう風邪のほうは完治されたのでしょうか。
体調に留意されてくださいねー。

戦闘で凍死するのは雑兵が殆どでしょうから、老若の兵がいたの
でしょうね><

隣の県と戦っていたのですから、今では考えられないことですね。
プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ