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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その45

『百事みな蹉跌』

上月城から織田家の援軍は引き上げて行く。心細さは限りがない。

そのうち糧食も尽きてきた。もういたし方ない。

鹿介は降伏を申し送った。

毛利方では

「尼子勝久が切腹するならば、士卒は助命いたそう」

という。

尼子勝久(1553-1578年)
am.尼子勝久 01

鹿介は勝久の助命を幾度も乞うたが、毛利方は許さない。

決心した鹿介は勝久の前に出て言った。

「武運つたなく、かかる仕儀となりましたこと、誠に残念でございます。おそれ多いけれど、御自害あって

士卒の命にかわっていただきとうござる。拙者もお供すべきでござるが、思うところがござれば、暫く命を

おん貸しくだされとうござる。」

勝久はうなずき

「われらこと、世捨人として朽ち果つべき身であったに、尼子家の当主となり、一時なりとも出雲の主とし

て数万の士卒を率いて戦うことができたのは、みなそなたのお蔭じゃ。百事みな蹉跌、かようなことにな

り果てたのは、決してそなたの智謀のつたないためではない。ひとえに家運の尽き果てた故である。わし

に義理立てなどいらぬこと、そなたは命を全うし、尼子家の再興につとめてくれること、なによりの忠節で

あるぞ」

と言って、切腹して果てた。

籠城して70余日の7月3日であった。

勝久は京の東福寺でお坊さんになっているところを担ぎ出されたのでしたね。

担ぎ出された1568年から、上月城落城までの1578年の10年間は充実した時間だったのでしょう。

勝久この時、26歳。



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いつもありがとうございます。



pig 20150208




『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:赤松政範
上月城主・赤松政範の妻は、黒田官兵衛の妻・光(てる)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟でした。合戦では、先陣として落城させた官兵衛の苦悩はたいへんだったでしょう。



                                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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うっうっうっ

こんばんは。いつもお世話になっております。

そうよ、pigletくん、尼子さんは負けたのよ(ノ_<。)
最期ははらぺこだったのよよよよ。

知謀もなにもあったもんじゃない鹿くんが、元春隆景両雄にかなうわけがないのよよよ(T^T)
勝久様は鹿くんの言葉を聞いてどう思ったのかしら。

つねまる さま

つねまるさーん、こんばんわー♪

本当に腹ペコはつらいよねー。
pigletは絶対に耐えられないですよ。パン持って来い!
と騒ぎわめきます><

そう、鹿くんは戦ったことはなかったんですよね。
戦歴のない鹿くんが、百戦練磨の元春、隆景様にかなう訳はありません!

> 勝久様は鹿くんの言葉を聞いてどう思ったのかしら。

京で坊主しておけば良かったに・・・。26歳は若すぎだよねぇ~。シクシク
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