『四国の雄 長宗我部元親』 その29
『豊後国・戸次川の戦い』
12月12日の払暁(明け方)、府内を出発して戸次川の左岸竹中山に向かい、着くや長宗我部軍右翼と
なり、十河と仙石は左翼となって布陣した。
薩摩軍は上方勢が後詰めとして来たと聞いて、利光城の囲みを解いて退却したが、これは薩摩軍の深
い計略であった。
戸次川古戦場跡

それとは知らない仙石は、敵軍退却と聞いて意気あがって
「すわや、薩摩人ども臆病風に吹かれたぞ。戦は気に乗じるをよしとする。戸次川を渡って追撃にかかり
申そう。面白い戦さが出来申すぞ」
と主張した。
元親は異議を唱えた。
「いやいや、それはよろしゅうござらぬ。当地の地勢は守るにまことによい地勢。待ち構えて弱気を示し、
敵をさそい出し、敵よりかからせて、これを撃破し、浮き足立つところを追い崩すがようござる。われより
進んで戦うのは危のうござる」
十河もこれに賛成したが、きおい立っている仙石は耳にも入れない。
「貴殿らが不同意なら、拙者一人で渡る」
と、自分の隊2千人を率いて川を渡ってしまった。
薩摩軍は3隊に分かれて密林中に埋伏して敵が来るのを待っていたので、一斉に立ち上がって攻撃
にかかり猛烈をきわめた。
ついに四国勢は大敗北、十河存保は戦死、元親の嫡子・信親も戦死、元親の老臣・桑名太郎左衛門
も戦死という散々なことになってしまった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
12月12日の払暁(明け方)、府内を出発して戸次川の左岸竹中山に向かい、着くや長宗我部軍右翼と
なり、十河と仙石は左翼となって布陣した。
薩摩軍は上方勢が後詰めとして来たと聞いて、利光城の囲みを解いて退却したが、これは薩摩軍の深
い計略であった。
戸次川古戦場跡

それとは知らない仙石は、敵軍退却と聞いて意気あがって
「すわや、薩摩人ども臆病風に吹かれたぞ。戦は気に乗じるをよしとする。戸次川を渡って追撃にかかり
申そう。面白い戦さが出来申すぞ」
と主張した。
元親は異議を唱えた。
「いやいや、それはよろしゅうござらぬ。当地の地勢は守るにまことによい地勢。待ち構えて弱気を示し、
敵をさそい出し、敵よりかからせて、これを撃破し、浮き足立つところを追い崩すがようござる。われより
進んで戦うのは危のうござる」
十河もこれに賛成したが、きおい立っている仙石は耳にも入れない。
「貴殿らが不同意なら、拙者一人で渡る」
と、自分の隊2千人を率いて川を渡ってしまった。
薩摩軍は3隊に分かれて密林中に埋伏して敵が来るのを待っていたので、一斉に立ち上がって攻撃
にかかり猛烈をきわめた。
ついに四国勢は大敗北、十河存保は戦死、元親の嫡子・信親も戦死、元親の老臣・桑名太郎左衛門
も戦死という散々なことになってしまった。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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☆〇〇〇 さま
☆〇〇〇さん、こんにちは。
> この辺りは臼杵に行くとき良く通る道で
> 途中に碑があります。
そうですよね。
R10を走っていて、何度か通過したことがあります。
豊後は戦国時代の宝庫ですから、いろんな話に出てきますね!
> 仙石の間違った戦略で失わずに済んだかも知れない命
> 何とも無念ですね
仙石さんは世渡り上手ですから、失敗を繰り返しながら人生を
まっとうしています。
こんな人、近くにもいますよね^^
> この辺りは臼杵に行くとき良く通る道で
> 途中に碑があります。
そうですよね。
R10を走っていて、何度か通過したことがあります。
豊後は戦国時代の宝庫ですから、いろんな話に出てきますね!
> 仙石の間違った戦略で失わずに済んだかも知れない命
> 何とも無念ですね
仙石さんは世渡り上手ですから、失敗を繰り返しながら人生を
まっとうしています。
こんな人、近くにもいますよね^^