『四国の雄 長宗我部元親』 その30
『九州裏街道口の先鋒軍は崩壊』
味方敗軍、混戦になったので老臣・桑名は敵を防ぎながら、元親の嫡子・信親に
「急ぎ落ちさえ給え」
と手振りして知らせたが、一寸も退かず馬から下りて4尺3寸の大太刀を持って込み掛かってくる敵を一薙
ぎに8人も切り伏せた。(オーバー過ぎです)
高知・雪蹊寺の長宗我部信親の墓

そのうちしだいに敵が手許につけ入って来ると、今度はさし添えの刀左文字を抜き、また6人斬り伏せた。
物具の上から斬るので、刀の刃はぼろぼろにこぼれてノコギリのようになった。
「今はもうせん方なし。腹を切ろう」
と心にきめたが、なお襲いかかってくる敵についに討ち取られてしまった。
信親、享年22才であった。
この時、信親が用いた左文字の刀は、元親が最初に信長に懇親の使いを遣わし、信親のために名乗の一
字を乞うた時、信長が名前に添えて贈ってくれた、あの刀であったという。
信親は元親が最も愛する子であった。
信親の戦死を聞くと
「同じところで死のうぞ」
と、馬を乗り太刀を抜いて敵がかかって来るのを待ち受けていた。
そこへ家臣・十市が来て
「もったいなや、何とて退きたまわるぞ」
と諌めて、自分の馬に乗せようとしているところに、どこからか元親の馬が走り帰ってきたという。
以上は、元親記の記述です。
この時の馬は内記黒(ないきぐろ)という名であったといいますから、去年の10月に最初に秀吉にお目見
えした時に秀吉から貰った馬であった。
元親は伊予の日振島に逃れ、仙石は讃岐の居城に逃げ帰り、九州裏街道口の先鋒軍は崩壊してしまった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
味方敗軍、混戦になったので老臣・桑名は敵を防ぎながら、元親の嫡子・信親に
「急ぎ落ちさえ給え」
と手振りして知らせたが、一寸も退かず馬から下りて4尺3寸の大太刀を持って込み掛かってくる敵を一薙
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高知・雪蹊寺の長宗我部信親の墓

そのうちしだいに敵が手許につけ入って来ると、今度はさし添えの刀左文字を抜き、また6人斬り伏せた。
物具の上から斬るので、刀の刃はぼろぼろにこぼれてノコギリのようになった。
「今はもうせん方なし。腹を切ろう」
と心にきめたが、なお襲いかかってくる敵についに討ち取られてしまった。
信親、享年22才であった。
この時、信親が用いた左文字の刀は、元親が最初に信長に懇親の使いを遣わし、信親のために名乗の一
字を乞うた時、信長が名前に添えて贈ってくれた、あの刀であったという。
信親は元親が最も愛する子であった。
信親の戦死を聞くと
「同じところで死のうぞ」
と、馬を乗り太刀を抜いて敵がかかって来るのを待ち受けていた。
そこへ家臣・十市が来て
「もったいなや、何とて退きたまわるぞ」
と諌めて、自分の馬に乗せようとしているところに、どこからか元親の馬が走り帰ってきたという。
以上は、元親記の記述です。
この時の馬は内記黒(ないきぐろ)という名であったといいますから、去年の10月に最初に秀吉にお目見
えした時に秀吉から貰った馬であった。
元親は伊予の日振島に逃れ、仙石は讃岐の居城に逃げ帰り、九州裏街道口の先鋒軍は崩壊してしまった。
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