『秀吉の大陸進出の野望』 その11

『石田三成という男』

小西行長は聚楽第を出た足で、石田三成の屋敷に向かった。

秀吉子飼いの家来らは、この頃ではそれぞれに相当の石高を持つ大名に取り立てられていた。

それらの中で加藤清正や福島正則は秀吉の血縁なので、20万石の大名であったが他の者はみな10数万

石、あるいはそれ以下であった。


三成が攻めた館林城と忍城  (三成の忍城攻めの「のぼうの城」の記事は「こちら」です。)
館林城                忍城
ta.館林城 001   忍城 001

三成が近江の佐和山の領主であったことは有名ですが、それは、この3年後、豊臣秀次が秀吉の怒りにふ

れて切腹させられた後、その旧領の一部を貰ってからのことで、この当時は正確に何万石の身代であったの

か、どこがその居城であったかはわかりません。

秀吉の書記官長役職にいたのですから、近畿地方か播州地方であったのかも知れません。

また、三成は実戦の雄ではありません。

大名というものは武勇の働きがなければならないと考えられた時代であるので、彼もはじめは武将としての

働きに心がけ、秀吉の関東征伐の時には、自ら請うて上州館林城と武蔵の忍城を攻めたが、いずれも失敗

しています。

館林城の時には背後の沼に仮橋をかけ、そこから攻め込もうとしたが、その仮橋が一夜のうちに沈んでしま

った。

また、忍城の時には延々の長堤を築いて、利根川と荒川の水を堰入れて水攻めにしようとしたが、一夜の大

雨で堤が破れて、これまた失敗に終わっています。

いずれも秀吉流の大掛かりな攻城をしているが、不測のことで失敗しているのです。

このようなこともあって、三成は実戦の雄ではないと世間から思われるようになったのです。

後年の関ヶ原の敗戦も、その原因のひとつがここにあるのでしょう。

西軍の諸将らが、戦争における三成の指揮能力を信じていなかったので、心が一致せず、バラバラな戦いと

なり、敗戦になったと思われます。

こんな風に、三成は当時の武将の第一の資格である実戦における功績がないというので、大名らは心から重

んじていなかったが、文吏的才幹は抜群であり、秀吉の官房長官的位置にいて、その信任があつかったので、

恐れはばかられていたという。

特に外様大名の伊達政宗、佐竹義宣、毛利輝元、長宗我部元親、島津義弘などは最も敬重し、伊達を除く他

の大名たちが、関ヶ原の戦いで西軍に味方したのは、この因縁に寄るところです。

しかし、これも三成に対する敬意ではなく、秀吉に対してであったことはいうまでもありません。



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忍城ライトアップ
os.忍城ライトアップ 20141011 001




                                         <参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
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No title

こんばんは
忍城綺麗ですね!
三成が水攻めで築いた本陣あとから忍城を見ましたが
たったあれだけの丘(古墳ですよね)からの眺めでも
ワクワクしましたよ。

ミント さま

ミントさん、こんばんわ~

丸山古墳に行かれましたか。
行田の街並みが一望でき、忍城も小さく見えますよね。

あの古墳も三成堤防の一部なんですよね。
機会がありましたら、「のぼうの城」もご覧ください。
結構、楽しめますから・・・。
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