『秀吉の大陸進出の野望』 その45

『分捕り』

戦争の際の掠奪・暴行・捕虜虐待等の野蛮不道徳な行為が国際間の話し合いで、法規として禁止されるよう

になったのは新しいことなのです。

1856年のバリ条約を最初として、度々の国際会議を重ねて今日の形になってから、まだ100年余りしか経

っていないのです。

ナポレオン戦争(1803-1815年)
na.ナポレオン戦争

ナポレオン戦争時代は、敵味方とも掠奪したり、捕虜虐待行為は普通のことだったといいます。

戦場で敵を倒すと、敵の所持品の時計、財布や指輪などを奪っているが、当時の人の多くはそれを不法とす

る道徳感はなかったのです。

日本も同様で、戦国武将たちはこの点では道徳感覚が低く、戦国武将どころか、それから300年近い後の

維新戦争の時もそうであったというのです。

「分捕り」という言葉さえあって、掠奪することを悪と思わない者が多かったのです。

しかし、どんな時代にも天性の道徳心が高い人はいるのです。そういう人が武将であれば軍令を立てて厳し

く禁止する。

豊臣秀吉はこのような武将であったという。

彼は国内戦においても、掠奪や捕虜虐待を禁じ、敵の戦死者などには最も情けある処置をしているのです。

朝鮮出兵においても軍令を布告して、きびしい禁止条項としていることも前述したとおりです。

清正が釜山上陸以来、この軍令を厳重に守ってきたことも前述しましたが、京城に入って掠奪を禁じたのも、

やはりそのためであったのです。

律儀な清正は、秀吉の命令に違反すまいとしたのです。

掠奪について、こんな話を「清正高麗陣覚書」が書き残しています。

京城に入る前、忠州で清正軍が小西軍に追いついた時のことです。

清正は小西軍が布・木綿類を大量に掠奪して、牛馬に満載しているのを見て、小西に向かって

「こんなくだない物を分捕って難儀して運ぶなど、行軍力を鈍らせるだけである。京城に着きさえすれば、金・

銀・財宝・金襴・緞子など山のようにある。焼いてしまいなさい」

と勧めて、みな一箇所に集めさせ、焼き捨てさせたというのです。

どの程度まで、この記事を信じるべきかわかりませんが、掠奪ということに対する清正の態度、小西の態度

を、ある程度は表現されているのかもしれません。



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熊本城・大天守の石垣 (昇れそうですよね)
熊本城 20150501 005



                               <参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
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