『武将の名前は、どう呼んだ』 その4

『“治部少輔”って誰のこと?』

こうした官職名は、たとえ朝廷から授けられても名誉ある爵位として受けるのみで、実際にその職について

いた訳ではなかった。

石田治部少輔三成(1560-1600年)
is.石田三成 002

しかし、そのイメージにふさわしい官職名がつけられていたケースがあります。

石田三成の“治部少輔(じぶしょうゆう)”は五位以上の継嗣・結婚・喪葬、国忌、雅楽および外交を司る役職

で、五奉行のひとりとして行政に辣腕を振るった文吏の三成にぴったりです。

当時、三成のこの官職名は有名で、“治部”、“治部少”といえば三成というほどであったという。

この他、官職名を通称とした主な武将は、次のとおりです。

大谷刑部少輔吉継

長曾我部宮内少輔盛親

長束大蔵少輔正家

吉川侍従広家

加藤主計頭(かずえのかみ)清正

福島左衛門太夫正則

などがいます。

こうした官職名は、武将の社会的地位、身分が高くなるにつれて改められ、官位も正従の1ランクずつ上がっ

ていった。

しかし、中納言のような高位の官職になると、豊臣治世下の五大老であった宇喜多秀家・毛利輝元、信長の

嫡孫である織田秀信、秀吉の甥の小早川秀秋といった、名家、大大名でしかなれない。

秀家は“備前中納言”、輝元は“安芸中納言”、秀信は“岐阜中納言”そして秀秋は“金吾中納言”と称されて

いたのです。

秀秋の“金吾”は、日本の衛門督(えもんのかみ)に相当する唐名で、秀秋が中納言に昇進する前の衛門督

にちなんでいます。

中納言より上の大納言では、秀吉の弟の豊臣秀長が、“大和大納言”、五大老の次席である前田利家が“加

賀大納言”として知られます。

五大老の筆頭の徳川家康は、その官位である内大臣から、“内府”と呼ばれています。



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石田三成の佐和山城 (佐和山城登城記は「こちら」です。)
sa.佐和山城 20121118 001




                                  <参考文献:戦国大名おもしろ辞典(奈良本辰也薯)>
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