真田丸 その2

『信繁の略歴』

真田信繁(幸村)は真田昌幸の次男として、1567年8月に生まれ、幼名をお弁丸、後に源次郎と称している。

現在でも「真田幸村」の名で広く知られていますが、直筆の書状を始め、生前の史料で「幸村」の名が使われ

ているものは無く、実名においては「信繁」が正しいようです。

真田信繁(1567-1615年)
sa.真田幸村 001

「幸村」の名が見られるようになったのは、大坂夏の陣以後で、60年近く経た、1672年に成立の軍記物語

『難波戦記』で初めて使用されたという。

時代が下るにつれ「幸村」の名が広まり、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之

の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史においても「幸村」が採用されています。

1582年3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻により、武田氏は滅亡したが、真田氏は織田信長に恭順して

上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されている。

同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模の後北条氏

、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。

真田氏は上杉氏に帰属して自立し、1585年8月には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。この際

に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与

えられたという。

この時、信繁20歳。

1589年11月、昌幸は上杉景勝が豊臣秀吉に見参すべく京都に上った不在をうかがって、信繁を呼び返し、

大谷吉継によって秀吉のもとに差出し勤仕させている。

これも人質の意味であった。

景勝は怒って秀吉に訴え返還を乞うが、秀吉は景勝をなだめて手もとに留め置いた。

信繁、24歳の時である。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。



上田城を攻めるpiglet
ue.20100529 上田城 002



                                <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

No title

こんにちわ!

今回の大河ドラマ「真田丸」まだ見てないのですが
盛り上がるといいですね
幸村さんのこの辺りの話は、大河ドラマ「天地人」で
出て来ましたね

あの頃は一生懸命見ていたなあと
懐かしくなりました


まにゅの子 さま

まにゅの子さん、こんにちは。

真田丸、視聴率上がるといいですね。

幸村の若いときの情報はないので、つい真田家(昌幸)の動きになりますね。

昨日の真田丸も武田家の滅亡の話でした。

堺さん、大泉さんが軽い役者さんですから、戦国武将の苦悩を演じることが

できるのかの視点で見ています^^

> 幸村さんのこの辺りの話は、大河ドラマ「天地人」で
> 出て来ましたね

当分、天地人の内容が続くと思います。
プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ