『秀吉の大陸進出の野望』 その100 

『進まぬ和議』

当時も心ある人は、明朝内でも、朝鮮でも、その欺まんを知っていて、猛烈な和議反対論が展開されたと

いう。

しかし、熱心な和議論者もあった。大司馬石星がその中心であった。

この頃、明朝は深刻な禍害をかかえていたのです。

亀井新十郎(1557-1612年)
ka.亀井新十郎

後に明朝を滅ぼして清朝を建てた愛新覚羅氏が満州に興って、強盛になりつつあったのです。

石星らは、これを重大視して、

「この際としては、一日も早く日本と和議し、満州方面のことに力を集中しなければならない」

と思ったのです。

彼らもまた沈惟敬と小西が言うことがインチキ臭いことはわかっていたが、わからないふりで、ひたすら和

議を主張したという。

つまり、明朝の石田三成・小西行長だったのです。

両方とも強硬であるから、なかなかことが決しない。在韓の日本軍は朝鮮南部に駐留を続け、また冬がき

た。

この冬の間に行なわれたのが、虎狩であった。

この時の虎狩では、清正の虎狩が後世にもっとも有名になっていますが、清正だけが行なったのではなく、

諸将いずれもやっているのです。

最初にやったのは、石州津和野の領主・亀井新十郎( 茲矩)であった。彼は山中鹿之介の娘婿で、槍の名

人といわれ、なかなかの勇将であった。

この男は虎が陣中の馬を咥え去ったことを怒り、虎狩をして討ち取ったので、その皮を剥いでなめし、内地

に送って秀吉に献上した。

秀吉は大いに喜んだが、侍医らが

「虎は最も強健勇猛な獣でございまして、唐土や朝鮮においては。牙や爪まで宝物とし、これをふところにし

ていれば、魔よけになると言いならわしています。その肉や内臓は強壮食となります」

というのを聞いて、在韓の諸将に通達した。

「今後、もし虎を獲ったら、皮だけでなく肉や内臓も、塩漬けにして送ってよこすように」

秀吉は、この時59歳ですが、何十年の過労が積もって、相当体力の衰えを感じていたのでしょう。




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