真田丸 その7

『秀忠と昌幸 その3』

昌幸は、また答える。

「故太閤恩顧の人々が内府様にお味方されるのは、皆様それぞれの心があってのことでござろう。拙者には

拙者の心がござる。たとえ伊豆守(信幸)に腹切らせて、この城を踏み潰すと仰せられても、従うわけにはま

いらん。昌幸の義不義は天下後世の論に任せます。お道すがら、当城に兵を向け給わんこと、ご随意に」

と答えたので、秀忠は益々怒り、ついに攻撃することになった。

以上は、改正三河後風土記の説です。

真田昌幸(1547-1611年)
sa.真田昌幸

上田軍記ではこうなります。

秀忠が使者として選んだのは、兄・信幸と本多忠政であった。

忠政は平八郎忠勝の子ですから、信幸とは義兄弟です。2人は上田城内に通知すると、

昌幸は、

「国分寺で待って貰いたい。拙者すぐまいるであろう」

と答えて、出城して赴いた。

手厚く両人を饗応し、それから2人の口上を聞いた。

2人は秀忠からの旨を伝えた。

「この度のことは石田らの不義の企てであることは明らかである故、速やかに心をひるがえして味方に参じら

れよ。さすれば本領安堵の上、御褒美を賜るでありましょう」

昌幸は心にしみてありがたく思う様子で、

「かたじけなき思召しであります。委細かしこまりました。この趣き家臣共にも申し聞かせ、やがて御返答申し

上げるでありましょう」

と答え、とやかくと日数を稼いで、その間に籠城の支度をすっかり整え、

「わしの決心はゆるがぬ。向後参ること無用」

と手強く申し切ったので、

秀忠は、

「古狸め、俺を欺いたのか」

ということになっている。

どちらが真偽であるか分かりませんが、戦国武将にとっては、切所においては父も子もない、厳しい時代で

あったことは間違いありません。



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