『秀吉の大陸進出の野望』 その111

『秀吉の教訓』

地震の翌日には大急ぎで仮小屋が建てられ、そこが当分の秀吉の居場所になった。

ある日、清正はその仮小屋に呼ばれた。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 小

秀吉は左右に徳川家康と前田利家とを対峙させて言った。

「お虎よ、汝は小せがれの頃から、おれが側で育ったものじゃが、少しも大人にならんのう。今は、肥後半国

20何万石という大身の大名になっているのに、その無分別さは小生の頃と少しも変わらんぞ。子供が朋輩

ぜり合いをするのは、勇気ありあまってのこと故、見よいもんじゃが、大身の身となっては見苦しいぞ。心がけ

のあるべきものじゃぞ」

父が子に教訓するような調子です。

清正は心にしみて、ありがたく聞き、無言で平伏し続けた。

ここで秀吉の調子が変わった。

「われは、小西のことを朝鮮の者どもに、堺の町人にすぎんと言うたげの。小西は元は堺の町人でも、今は

われと同じく肥後半国の主じゃ。何たることを言うのじゃ。また朝鮮人や明人ともに豊臣清正と名乗っている

げな、おれが許しも受けず、何という僭越なことをするぞ。さらに小西がせっかく和議に骨折っているのを、い

ろいろ邪魔して和睦のならぬようにしているげな。これもけしからんことじゃ。以上のこと、許しがたいクセごと

じゃが、今度の大変に、一番に駆けつけて来た奉公ぶりに免じて、今度は許してやる。以後はきっと慎むが

よいぞ」

清正はお礼だけ申上げるのが最も無難であると思ったが、それは殿下のため、また日本のためにならないと

思った。

また悔しくもあった。



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いつもありがとうございます。




                                    <参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
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No title

こんばんは。

元熊本県人です。

ということで、加藤清正公よりです(*^_^*)

秀吉さんは、なんで小西行長をそんなに大事にしてたのですかね?

清正公は悔しかったでしょうね。子供のころから、ねねさんと一緒にいた
家族のような秀吉さんに、理由も聞かれず一方的にあんなこと言われたんじゃ。

すみません。熱くなりましたm(__)m

いつも、ブログ楽しまさせていただいています!

チョッペスト さま

チョッペストさん、こんにちは。

いつもありがとうございます!

熊本県人は「せいしょこさん」ですよね♪

秀吉さんは譜代がいないので、目をかけた人を皆だいじにしたの
ではないのでしょうか。

秀吉さんは晩年に近づくと、持ち前のおおらかさが無くなり豊臣家の
存続が全てになっている気がします。

> すみません。熱くなりましたm(__)m

家康VS秀吉なら、秀吉さんなのでしょうね☆

コメントありがとうございました!
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