大坂の陣 その1

『70歳の家康がみせた19歳の秀忠への焦り』

家康は政権安定のための「飴と鞭」を用いた外様大名統制策を打ち出している。

飴のほうでは、婚姻政策によって縁戚関係を結び、有力大名諸家には松平姓を与え、徳川家との紐帯を強

めた。

徳川家康(1543-1616年)
to.家康 岡崎城

北政所の養家である浅野家などとは二重三重の婚姻を行っている。

鞭のほうでは、江戸・駿河・名古屋城を天下普請といって各大名に割り当て、普請を手伝わせることによって、

その財を消費させて力を殺ぎ、妻子を江戸に人質にとって反抗できないようにした。

こうして外を固めた家康は、いよいよ核心の豊臣政策に転じる。

慶長16年、後陽成天皇から後水尾天皇への譲位が行われ即位式に出席するため上洛した家康は、この機

会を利用した秀頼との会見を考え、二条城への出仕を求めた。

秀忠の将軍就任の際は淀殿の反対によって上洛を拒絶した豊臣家であったが、今度は加藤清正らの説得に

より秀頼の上洛が行われた。

二条城での会見には、秀頼暗殺を防ぐために懐剣を忍ばせた加藤清正はじめ、北政所の甥にあたる浅野幸

長らの活躍によって無事に終っている。

家康は秀頼の上洛に対して満足の意を示すが、その一方で、侍女から阿呆のように聞いていた秀頼が立派

に成人した姿を見て、徳川家の将来に対する不安を感じて、大坂討伐を本気で考えるようになる。

この時の会見の様子をうたった京の落首が

「御所柿はひとり熟して落ちにけり木の下にいて拾う秀頼」

というもので、70歳の老齢の家康のほうが先に死に、天下は自然と秀頼のものになる。いう意味であった。

家康に対する皮肉と京における豊臣への人気が、いまだ衰えていないことがわかります。



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いつもありがとうございます。



家康と秀頼の会見が行われた二条城 (二条城登城記は「こちら」です。)
ni.二条城 002




                              <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
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焦りは禁物

こんにちは。いつもお世話になっております。
秀吉人気は衰えず、秀頼は成長株。
淀殿と共に寺社復興にも尽力して、京都の人にはいいお財布の豊臣家ですしねぇ。
秀吉の時代は、面白かったんでしょうね。それに対してイケズをする家康は、何か好かん。何となくわかる気がします。
二条城、久々に行きたくなります。いつもあまりの人の多さに通りすぎるだけで。もったいないなー。

つねまる さま

つねまるさん、こんにちは。

今でも、上方は秀吉さんしかないでしょうね。
大坂城も、なぜ、豊臣大坂城で復興しなかったのか。との意見も今でも根強いものが
あると聞きますね。
京都といったら、聚楽第の復元をしてもらいたいです。
模擬だったらいらないですけど、、

二条城は、サングラスにスカーフ巻いたかん高い声の観光客が多すぎます。
京都全体にあふれていますけどね。

そう言えば、京都記事は記憶にないようです。
ぜひ、お願いします。
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