大坂の陣 その8

『秀吉、痛恨の一言 息子を殺した“大坂城攻略法”』

和議の条件は、大坂城の外堀を埋めるというものであったが、家康は強引に二の丸、三の丸を破却し、

内堀まで埋め、城を裸城にしてしまった。

この謀略によって内堀まで埋め、裸城になったところを攻め落とすというのは、かつて秀吉が家康たちを

前にして、唯一の大坂城の攻城法として語ったものであった。

裸城の大坂城
大坂冬の陣後堀埋め

家康は、それを実行したというわけですが、まさか自分が語った方法で息子が攻められるとは、夢にも思

わなかったことでしょう。

家康は剥き身と化した大坂方に対し、牢人の召し放ち、秀頼の大和または伊勢への国替えの二者択一

を命じる。

これは冬の陣の講和条件における、牢人対する不問と国替えはしない。という条件の違反であった。

家康は、ゴリ押しに再戦へと大坂方を追い込んだのです。

一般に城攻めには、城兵の10倍の戦力が必要であるとされます。

この説によれば、冬の陣では10万以上の兵が籠もった名城で、100万の兵をもってしても落すことはでき

ないことになる。

籠城が数年におよべば、家康の寿命がるきる。また、徳川方の旗色悪しとみた諸将が大坂方に味方すると

いう事態も考えられたのです。

しかし、今やその城もなく、大坂方は野外決戦をしなければならなくなった。

相手は野戦の名人の家康です。大坂方には、万にひとつの勝機もない。

慶長20年4月7日、講和決裂によって家康が西国大名に出陣を命じる。

大坂夏の陣です。

戦闘は4月29日に始まった。大坂方5万5千、徳川方15万であった。

この日、塙団右衛門が単騎敵勢に突っ込み、華々しい戦死を遂げる。

勝ち目のない戦いならば、いくさ人として、己の人生を一節の語りぐさとして、名を残したいという思いが大坂

方の誰の胸にもあったのでしょう。



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                          <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
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