真田丸 その18

『昌幸、九度山で没する』

真田記に「或る人言ふ」と注して、こんな話を伝えています。

死に臨んで昌幸は平然として信繁にいった。

「わしの命がもう3年あったら、秀頼公に天下を取って上げられるものを」

信繁は、その策を聞いた。

真田庵の昌幸の墓
真田庵昌幸墓 001

昌幸は、はっと我に返った様子で

「いや、いや、重病の心乱れなきことを言うたわ。乞食同然のこの身になって、どうしてそんなことが出来よ

うぞ」

と、打ち消した。

「いや、いや、それがしに対してご用心はいりませぬ。ぜひ仰せつけください」

「ハハ、そうか。では、ざんげ物語のつもりで聞いてくれ。わしの見るところでは3年のうちに東西が手切れと

なる。もしわしが存命するならば、人数3千ばかりを率いて伊勢の桑名の向こうまで出て備えを立てよう。わし

の手なみは大御所もたやすくはかかられまい。暫くにらみ合っているうちには、豊田家恩顧の諸大名どもして

心を動かして大坂方へ馳せ参ずる者も多く出る筈だ。そこで大御所(家康)が攻めかかって来られたら、陣を

引いて桑名のこちらでまた支える。これを繰り返しているうちには一層人数が集まる筈だ。やがて近江の瀬

田まで来たならば、唐橋を焼き落して、こちらに柵を付けて支える。数日さえぎれば、さらにおびただしく味方

は増えよう。天下の豊臣家に帰すること案のうちではないか。やれやれ、長物語に胸が苦しい。水をくれ。」

と言って、水を飲んでむなしくなったというのです。


これに似た話は砕玉話(武将感謝記)にもあって、この書では昌幸が秘計を語った後、

「そちがわしの志をついで大坂にこもり、この計を用いようとしても、人が同意せんじゃろう」

と言ったという。

おれと違ってお前には名声貫禄がない、同じ計画を述べても信用しないであろういうことでしょう。

同じ程度の作品であっても、名声ある作家の作品であれば評判になるが、無名作家のものは黙殺されると

いったところでしょうか。

昌幸は1611年6月4日に没した。享年64歳



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上田長谷寺の昌幸の墓 (真田昌幸の墓参りは「こちら」です。)
sa.真田昌幸 長谷寺の墓



                                 <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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