男系が絶えるまで幽閉された土佐藩家老・野中兼山 その14

『過酷な報復』

兼山の政治はすべてにおいて成功して、加増につぐ加増で、知行は1万石となり、名声は天下に

届き、兼山が江戸に出向いた時には、幕府の老中・久世大和守などが丁重なあいさつしたといい

ます。

野中兼山(1615-1664年)
no.野中兼山

しかし、災いはその好調子の底に構成されていたのです。

理想家であり、また親譲りの激烈な性格であったので、同僚との協調に欠けるところがあり、民

百姓を夫役(ぶやく)に動員する際に

「その方どもの子孫のためだ。励め!」

とばかりに強行し、いたわりが足りません。

また、過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃亡する領民も出たと

いう。

さらに、郷士の役職への取り立てなどは上士らの反発を買い対立を深めていったのです。

小倉三省が生きている間は、まだ良かった。

三省は練れた穏やかな人であったので、兼山の激烈を制し重役らや民百姓らとの間に緩衝地帯に

なっていたのですが、その三省が1654年(承応3年)に51歳で病死したのです。

さらにその9年後の寛文3年には、兼山を最も信頼していた隠居の忠義が老衰でボケてしまった

のです。

機会を待っていた重臣らは、兼山の強力政治による民心の動揺を理由とする弾劾状を藩主・忠

豊に提出したのです。

兼山はすぐ辞職して、中野の別荘に隠居したが理想の消滅は生命の消滅です。

半年後には、兼山は病死したのです。享年49歳。

兼山に対する重臣らの憎悪は深刻を極め、その子女らを宿毛へ配流し、男系が絶えるまで一族

の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後であったのです。

痛ましいものです。



土佐の財政を回復させた、野中兼山にお付き合いいただき、ありがとうございました。

次の名君は「肥後の鳳凰・細川重賢」を勉強してみたいと思います。



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いつもありがとうございます。



pig 20160609



                   <参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
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こんにちは^^

野中兼山、
林業 養蜂など...
たくさん業績はあったと思うけれど、

年貢の取り立てとか、人にすごく厳しかったのですね。
一族が解かれたのは、死後、40年~
痛々しいです。

それにしてもどんなに業績があっても
思いやりや人との良い関係がなければ、
何も残らないのでは...
そんな事を痛感されられます。



ハーモニー さま

ハーモニーさん、こんにちは。

この時代の藩は、みな借財を抱えていて苦しい蕃運営で
あったようですね。

藩のために一生懸命努力し、その結果として小大名並み
の知行となったので、同僚から妬まれたのでしょうか。
みな苦しい生活をしているのに、ひとりだけ潤っている
のですから・・・。

> それにしてもどんなに業績があっても
> 思いやりや人との良い関係がなければ、
> 何も残らないのでは...
> そんな事を痛感されられます。

おっしゃる通りですね。
これは、現在に生きる私たちも同じことですよね。


かなり古い話になりますが、ハーモニーさんが
寒立馬を記事にされていましたが、私もバイクで
日本一周した時に見たことがあります。
寒立馬のあの力強い体躯を見てみたいな。思って
います。疲れているのでしょうかねぇ~)^o^(
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