真田丸 その24

『徳川家の策略』

信繁は自由に九度山から出られない身の上だから、出るときには変装する必要はあったでしょう。

また支度金として秀頼が与えたという金子・銀子も嘘であると断定することも出来ないのでしょう。

ともかく、信繁は大坂入城を承諾した、九度山を立ち退いて入城するのは、なかなか難しいことで

あった。

九度山・真田庵
真田庵 004

東西の風雲が急になって、大坂方が浪人を召集めていることは徳川方もよく知っている。

信繁に対しても大坂方から招聘の手が伸びていることも容易に推察がつく。

徳川家の対策は2つあったいう。

一つは信繁を大坂方に先立って味方にすること。

家康の書面と兄・信之(関ヶ原の戦い後、信幸を改名)の手紙を大和五条の領主・松倉重政に持た

せて、信繁のもとに遣わしています。

信繁は、先ず家康の書面を読んで、それから言った。

「ふつつか者のそれがしに御恩命の趣き、冥加(みょうが)しごくでござる。そのうえ莫大な御恩

禄を賜わるとのことでござれば、お味方いたしたくは存ずるが、亡父の遺言がござるによって、

関東へは伺候いたすわけにはまいりませぬ。このように御厳命にそむきます以上、兄の書面は披見

(ひけん)ぜず、封のままお返しいたす。この趣きよろしくご披露を」

きっぱりとした態度に、松倉はせん方なく下山したという。

第二には、第一の計略が齟齬したので、こんどは信繁を九度山から出さぬ手を巡らした。

家康は、松倉に

「真田が大坂に入城しようとするならば、途中で討取れ」

と命じた。

松倉は昼夜間者を九度山に入れて動性を伺ったという。

また、家康は紀州和歌山の浅野長晟にもこの旨を命じたので、浅野家では九度山付近の百姓らに

下知を伝えて、真田が大坂に走りこむようなことがあるやかも知れないから油断なく見張っておれ

と触れ、高野山からもこのことを申しつけさせた。



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sakura 20160702


                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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