秀吉の出世街道 その19

『関白任官工作』

秀吉は信長の旧臣でありながら、亡君の遺児をさしおいて天下に号令をくだそうとする、かれ自身

の不利な立場をよく理解していた。

だから北畠信雄(信長の次男)三法師(信長の嫡孫、織田秀信)と自分との主従関係を逆転させよ

うとして、その術策を練った。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

その目的で行なったのが、関白任官の工作であった。

秀吉がなにより困ったのが、わが身の素性の卑しさです。実力勝負の世の中でも、毛並みの良しあ

しが相当にものをいったのです。

中央政権を掌握した今は、なんとか工作して、この劣等感から解放されなければならない。

信長は尾張の守護代・織田氏の家老の家筋であるということで、平を姓とし、家康は三河の土豪・

松平氏の子孫でありながら、新田源氏の氏として源の姓を唱えたけれど、尾州中村の土百姓弥右

衛門の小せがれでは、系図の作りようもなかった。

秀吉は中央政権を掌握してから、一時、平姓を称したことがありますが、右大臣・平信長の後継者

だという意味からであったのでしょう。

しかし、間もなくそんなことでは満足できなくなる。

源平交替思想から考えると、平信長に代わって天下に号令するには、源秀吉でなければならない。

そこで、前将軍・足利義昭に懇願し、その猶子(後継者となるべき養子)となって源姓を名乗ろう

としたが、すげなく断られ、さすがの秀吉もしょげていた。

ところが、ちょうどその頃、藤原氏の五摂家の筆頭にあたる近衛前久が関白大政大臣の官職をや

め、これに代わって同じく五摂家のひとつの二条昭実が関白に就任しようとしたが、前久の子・

伸輔は、筆頭の家柄を主張し、昭実を退けて自分がこれに代わろうとした。

しかし昭実も、信輔に譲らず互いに争っていた。

この様子を見ていた右大臣の菊亭晴季は、好機逸すべからずと、前久を説得して秀吉を前久の猶

子にさせ、関白職を譲らせたのです。



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sa-ko 20160819




                        <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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