舅どの の城「大多喜城」
『本多忠勝の大多喜城』
真夏の山城を2城たのしんできました。
まず最初は、真田信之の舅どのの大多喜城です。
大多喜城の登城は2回目で、前回はバイクでの登城でした。 (前回の登城記は「こちら」です。)

大多喜城は16世紀の前半代に武田氏が入城したとも言われていますが、天文期(1532~15
55)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代に渡り、上総正木宗家の居城として
発展しています。

その後、1590(天正18)年に、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が江戸城に入り、
大多喜城を本田忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえた城です。
現存の二の丸御殿薬医門 (大多喜高校(二の丸跡地)に移設されています。)

本多氏時代に掘られた大井戸 (二の丸)

本多忠勝【10万石】天正18年(1590) 徳川四天王の一人とうたわれた家康の重臣
慶長6年(1601)伊勢国(三重県)桑名城に移る

熱演の藤岡さん

本多忠朝【5万石】慶長6年(1601)本多忠勝の次男
元和元年(1615)大坂夏の陣で戦死
本多政朝【5万石】元和元年(1615)本多忠朝の甥
元和3年(1617)瀧野城に移り、後の姫路城主となる

城主は本多氏の後、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、1703(元禄16)年に松平氏が入城
し、以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えています。

無双の忠勝さん、大河ドラマになるといいですね。

ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
<参考文献:現地パンフレット>
真夏の山城を2城たのしんできました。
まず最初は、真田信之の舅どのの大多喜城です。
大多喜城の登城は2回目で、前回はバイクでの登城でした。 (前回の登城記は「こちら」です。)


大多喜城は16世紀の前半代に武田氏が入城したとも言われていますが、天文期(1532~15
55)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代に渡り、上総正木宗家の居城として
発展しています。

その後、1590(天正18)年に、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が江戸城に入り、
大多喜城を本田忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえた城です。
現存の二の丸御殿薬医門 (大多喜高校(二の丸跡地)に移設されています。)

本多氏時代に掘られた大井戸 (二の丸)

本多忠勝【10万石】天正18年(1590) 徳川四天王の一人とうたわれた家康の重臣
慶長6年(1601)伊勢国(三重県)桑名城に移る

熱演の藤岡さん

本多忠朝【5万石】慶長6年(1601)本多忠勝の次男
元和元年(1615)大坂夏の陣で戦死
本多政朝【5万石】元和元年(1615)本多忠朝の甥
元和3年(1617)瀧野城に移り、後の姫路城主となる

城主は本多氏の後、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、1703(元禄16)年に松平氏が入城
し、以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えています。

無双の忠勝さん、大河ドラマになるといいですね。

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<参考文献:現地パンフレット>
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☆〇〇〇 さま
☆〇〇〇さん、こんにちは。
大多喜城は、忠勝さんの兜や陣羽織の試着もあって
盛り上がっていました。
> 藤岡さんも好きな俳優ですが
> 役柄が 良く似合いますね^^
本当にやさしい忠勝さんで、好評のようですねー♪
大多喜城は、忠勝さんの兜や陣羽織の試着もあって
盛り上がっていました。
> 藤岡さんも好きな俳優ですが
> 役柄が 良く似合いますね^^
本当にやさしい忠勝さんで、好評のようですねー♪