上総国・久留里城
『里見氏の居城・久留里城』
お盆休み山城めぐりの2城目は、上総久留里城に行ってきました。
1535年(天文4)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在
の城地に久留里城を築いた。(年代には異説あり)
1564年(永禄7)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落するも、その後、再び里見氏が奪還し
ています。

1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず
、秀吉の不興を買い安房一国の領有は許されたが、上総の所領を没収されます。
この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城してい
る。
深い堀切や井戸など多くに遺構が残っています。

その後、1600年(慶長6)の関ケ原の戦いの功により、松平(大須賀)忠政が3万石加増のうえ、
駿河国横須賀城に転封となったため、土屋忠直が2万石で入城します。
土屋氏は1679年(永宝7)に改易となり一時廃城となったが、1742年(寛保2)上野国沼田
城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩しています。黒田氏は明治維新まで居城し、
明治5年廃城令により久留里城の歴史は終っています。
昭和54年に模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されています。
左の土盛が実際の天守台です。

江戸末期に実際に建っていたものは、2層2階であったと推定されていますが、再建された天守は浜
松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なります。
駐車場から100m余の高低差を上がるだけでしたけど、夏の山城はたいへんです。
季節が良くなってからいくべきですね。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
お盆休み山城めぐりの2城目は、上総久留里城に行ってきました。
1535年(天文4)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在
の城地に久留里城を築いた。(年代には異説あり)
1564年(永禄7)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落するも、その後、再び里見氏が奪還し
ています。

1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず
、秀吉の不興を買い安房一国の領有は許されたが、上総の所領を没収されます。
この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城してい
る。
深い堀切や井戸など多くに遺構が残っています。


その後、1600年(慶長6)の関ケ原の戦いの功により、松平(大須賀)忠政が3万石加増のうえ、
駿河国横須賀城に転封となったため、土屋忠直が2万石で入城します。
土屋氏は1679年(永宝7)に改易となり一時廃城となったが、1742年(寛保2)上野国沼田
城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩しています。黒田氏は明治維新まで居城し、
明治5年廃城令により久留里城の歴史は終っています。
昭和54年に模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されています。
左の土盛が実際の天守台です。

江戸末期に実際に建っていたものは、2層2階であったと推定されていますが、再建された天守は浜
松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なります。
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