秀吉と桃山文化 その20
『秀吉の死因』
秀吉の死因については諸説があり、明国の使節によって毒殺されたという説まであります。
これは前田家の古記録に見えますから、当時、そのような風説があったということは事実なので
しょう。
豊臣秀吉(1537-1598年)

しかし、確かな証拠があるわけででもない。病死説のほうが信用できるでしょう。
その病死説にも、腎虚説と労咳説があります。
腎虚説はあまりにも女性との交渉が過ぎたため、腎水(精液)が虚(から)になり、そのため死
んだというのですが、現代医学ではこのような説、あるのでしょうか。
無難な説は、やはり労咳説なのでしょう。
当時の日記や古文書には、太閤秀吉は死去する数年前から、しきりに咳をしていたというのです。
そうして、それが次第にひどくなったといいますから、やはり労咳なのでしょう。
労咳とは結核のことですが、昔は肺結核と気管支炎の区別さえはっきりしていない訳ですから、
そのどちらかであったと判断すると間違いないことなのでしょう。
あるいは喘息だったのかもしれません。
腎虚にしても労咳にしても、消耗病であることに違いはなく、伊予の国の宇和島藩・伊達家に伝
わった秀吉晩年の画像の、やせ衰えた容貌を見ても、そのことに頷ける気がします。
秀吉公にお付き合い頂き、ありがとうございました。
秀吉公から暫くはなれ、また、別の機会に秀吉公を勉強したいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉の死因については諸説があり、明国の使節によって毒殺されたという説まであります。
これは前田家の古記録に見えますから、当時、そのような風説があったということは事実なので
しょう。
豊臣秀吉(1537-1598年)

しかし、確かな証拠があるわけででもない。病死説のほうが信用できるでしょう。
その病死説にも、腎虚説と労咳説があります。
腎虚説はあまりにも女性との交渉が過ぎたため、腎水(精液)が虚(から)になり、そのため死
んだというのですが、現代医学ではこのような説、あるのでしょうか。
無難な説は、やはり労咳説なのでしょう。
当時の日記や古文書には、太閤秀吉は死去する数年前から、しきりに咳をしていたというのです。
そうして、それが次第にひどくなったといいますから、やはり労咳なのでしょう。
労咳とは結核のことですが、昔は肺結核と気管支炎の区別さえはっきりしていない訳ですから、
そのどちらかであったと判断すると間違いないことなのでしょう。
あるいは喘息だったのかもしれません。
腎虚にしても労咳にしても、消耗病であることに違いはなく、伊予の国の宇和島藩・伊達家に伝
わった秀吉晩年の画像の、やせ衰えた容貌を見ても、そのことに頷ける気がします。
秀吉公にお付き合い頂き、ありがとうございました。
秀吉公から暫くはなれ、また、別の機会に秀吉公を勉強したいと思います。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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No title
食わず嫌いのところもあり、あまり秀吉について調べた事がないのでとても勉強になりました^^
えどっこっこ さま
えどっこっこさん、こんにちは。
秀吉さんは、生理的に無理な人もいますよね^^
この当時として、彼の性格に興味を持ったりしています。
「人たらし」とは、見事に言い当てているような気がします♪
秀吉さんは、生理的に無理な人もいますよね^^
この当時として、彼の性格に興味を持ったりしています。
「人たらし」とは、見事に言い当てているような気がします♪