みちのくの都

『奥州藤原氏は、なぜ平泉を拠点にしたのか』

中尊寺のある平泉は、東北最大の名所のひとつです。

この「みちのくの都」は、奥州藤原氏の初代・清衡によって築かれています

藤原秀郷の子孫とされる蝦夷の豪族・清衡は、源氏を巻き込んで拡大した「後三年の役」に勝って

奥羽の支配者となっています。

清衡が建立した金色堂
ko.金色堂

そして7年後の1094年(嘉保元年)に、居館を江刺郡豊田館から磐井郡平泉に遷しますが、そ

のとき清衡に平泉を選ばせたものは何だったのでしょう。

第一に平泉に拠点を移すことは、「衣川を越えて奥六郡の南へ進む」

という政治的な意味があったのです。

清衡以前に奥州を支配していた蝦夷の豪族・安倍氏は、朝廷の許しを得て奥六郡を自治領としてい

たが、納税拒否の問題をきっかけとして朝廷に反旗をひるがえし、衣川を越えて南進してきます。

その結果、安倍氏は朝廷から放たれた源頼義・義家に討伐された。(前9年の役)

このことによって、衣川は内国とみちのくを区切る境界線としての意味を強めていた。

つまり、この衣川は越えて平泉に南進することは、藤原清衡にとって京都の朝廷に対して奥州藤原

政権の樹立を宣言することにほかならなかったのです。

第二に、当時の平泉は、北の衣川、東の最上川、南の盤井川に挟まれた要害の地であり、みちのく

を貫流する北上川によって、南北の交易をたやすくする水上交通の要所でもあったのです。

第三の理由は、奥州の中央に位置する平泉が、奥州の南境にあたる白河関まで約10日、北境の外

浜(陸奥湾岸)までも約10日間という地理的条件を備えていたことです。

つまり白河関以南にも脅威を与えるためにも、白河関を越えて攻められたときに地の利を得た北方

に退くためにも、平泉は絶好の場所であったのです。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


金沢なう

金沢城




                  <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(奈良本辰也)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ