真田丸 その42

『信繁の討死』

信繁は突撃して来た越前勢と壮烈な血戦をしている間に、突然敵中に「浅野殿裏切り!」と大騒

ぎ騒ぐものがいて、徳川方は大混乱に陥った。

その時、信繁は越前勢の後方に位置していた家康の旗本目がけて真一文字に突進した。

十文字の槍を振るって、突き立て、たたき立て、「大御所はいずこぞ。真田左衛門佐信繁見参!」

と叫び阿修羅のように荒れ狂っていたので、さすがに精鋭の士を集めた家康の本陣も崩れ立ち、

家康は生玉まで逃げたという。

家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来2度目であり、真田隊の凄

まじさに家康は自害を2度も覚悟したという話もあります。


安居神社の信繁像 (信繁終焉の地「安居神社」訪問は「こちら」です。)
sa.真田幸村 002


信繁の精鋭の部下たちは殆ど戦死し、彼も疲労しきり安居神社の境内で傷つき疲れた身体を休ま

せていたところを、越前松平家の西尾宗次に発見され、「儂(わたし)の首を手柄にされよ」と

の最後の言葉を残して討ち取られたという。享年49歳

また、近年発見された新史料では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高

台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討

ち取り、後に陣中見舞いに来た知人が過去に真田家に仕えていたことから信繁の首と判明したと

記述されているそうです。


首は、家康の実検に備えられ、

「どんな具合にして討ち取ったか」

と聞いたところ、西尾はただ平伏していた。

「よい首を取ったの」

と家康は褒めたが西尾が立ち去った後、家臣らに、

「勝負はしなかったらしいの」

と言ったという。(落穂集)

一方、慶長見聞録では、これと反対のことを記述しています。

家康が信繁の最後の様を聞いたところ、西尾は、

「信繁は、なかなかよく働きまして、わたくしも手傷を負いました」

と言ったところ、家康が不機嫌になり、

「うそを申すな、早朝より奮戦した信繁だ、疲れ切っていたはずだ」

と言ったという。

“百戦の経験のある家康が騙される筈はない。”

ということでしょう。


城内に帰った大助は、秀頼に戦さの様子を報告した後、広庭にワラを敷き、食を絶って端坐して

いた。

速水甲斐守が、

「そなたは御譜代の者でない故、そこまでお尽くしになることはない。譜代の者どもさえ落ちて

行った者が多数ある。まことにそなたはまだ幼少、少しも苦しからぬことじゃ。早や、早や落ち

られよ」

と言ったが、大助は、

「父が上様のお供をして死ねと申しました」

と言い切り、座り続けていた。

翌日、井伊直孝が秀頼と淀殿の処分問題について城内にきた時、速水がこの話をして大助を示す

と、直孝は涙をこぼしたという。

いよいよ落城し、秀頼が自殺すると、大助は即座に切腹して死んだといいます。

年わずかに14歳です。

この話は、今日の私達にも胸迫るものがあります。



一年間、真田丸にお付き合い頂き、ありがとうございました。

来年の大河ドラマは、「おんな城主 直虎」ですね。 こちらも楽しみです!



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