東海道五十三次は、なぜ53なの

『東海道五十三次は家康さんが決めた?』

江戸と京都を結ぶメインルートは、126里余の東海道でした。

東海道の大半の宿駅は、江戸幕府の開設当初からあったが、寛永年間(1624~43年)に53

の宿駅が整います。

「東海道五十三次」の「次」は、「人馬を継ぐ」を意味し「次ぐ」です。

東海道五十三次 日本橋
ni.日本橋

江戸時代、公的な荷物は宿場ごとに止められ、中身を改められたうえで先の宿場まで継いでいく決

まりになっており、そこからきた言葉なのです。

江戸幕府は大坂冬・夏の陣で豊臣家を滅ぼしたあと、「天下の台所」として発展する大坂に城代

を置くとともに、東海道の大津宿から分岐して伏見・淀・枚方・守口の4宿を経て、大坂にいたる

13里の街道を整えています。

これを、伏見から京へ向かう街道を「京街道」と呼んでいました。

各街道の再整備は、そもそも大名の参勤交代のために行われたが、大名たちは政治的配慮から

京都へは立ち寄らず、大津~大坂のルートをとっていた。

東海道といえば江戸・京都間の「53次」を示しますが、江戸時代には、江戸~京都のルートに

大津~大坂のルートを加えて「五十七次」ともいっていたそうです。

東海道が基本的に「53次」だったことについては、味わい深い由来が語られています。

華厳経における「入法界品」の善財童子が、文殊菩薩の命により、53人の師を経て普賢菩薩の

ところで悟りを開いた。

その一説にちなんで、徳川家康が江戸(穢土)から京(普賢菩薩の住まう所)への53に定めた

というのです。

この由来は、後世につくられたこじつけと思われますが、昔の人の信心深さを考えれば、十分あ

りえる話かも知れません。



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          <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>
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No title

ティガーちゃん、少しずつ大きくなってますね^^
小さな尻尾をコショコショして遊びたいです(笑)

↓大阪城って燃えて落城したのですね。
何も知らない(笑)

今年は色々とお世話になりまた。
皆さんで仲良く暖かいお正月をお迎えくださいね!
来年も宜しくお願い致します。

お世話係 さま

お世話係さん、こんにちは。

お久しぶりです!

ティガーは、130→350gになりました^^
やっと大人の半分近くまで大きくなりました。

> 小さな尻尾をコショコショして遊びたいです(笑)

そうなんです。
へやんぽで、ひとり遊びに飽きてくると、ひざの上に載ってきます。
今が一番かわいい時期ですね♪

> ↓大阪城って燃えて落城したのですね。
> 何も知らない(笑)

あら、地元の人は冷静なのですね^^
お城では大鷺でしたよ!

こちらこそ、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
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