「夫を餓死させられた満天姫」 その35
『正則への罰』
慶長19年10月の大坂冬の陣、慶長20年4月の大坂夏の陣となって大坂城は落ち、名実とも
に徳川の世となり、江戸に留め置かれた正則は翌年に広島に帰るのを許された。
広島城

家康が死んだのはその年の4月。
家康はとうとう日ノ岡の関所の恨みを晴らすことなく、2代将軍・秀忠もむろん日ノ岡の恨みを忘
れてはいなかった。
秀忠は翌、元和3年にも上洛するが、5年にも上洛する。
元和5年6月2日、秀忠は上洛するとすぐ酒井忠世など重臣5人を集めて正則のことについて議
し、次のように申し渡すことを決めている。
「こたび、広島の城を私(わたくし)に増築せし事、大不敬の罪を逃るべからざるところ、陳謝の
言葉をつくすを以って、しばらく寛宥の御はからひあり、本丸を残し、その外ことごとく破却すべ
き旨仰せ下されたしに、陽に拝諾しながら、上石のみをとり去りて日月を遅延する事、もっとも重
科たれば、芸備両国を収公せられる」
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いつもありがとうございます。

<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
慶長19年10月の大坂冬の陣、慶長20年4月の大坂夏の陣となって大坂城は落ち、名実とも
に徳川の世となり、江戸に留め置かれた正則は翌年に広島に帰るのを許された。
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家康が死んだのはその年の4月。
家康はとうとう日ノ岡の関所の恨みを晴らすことなく、2代将軍・秀忠もむろん日ノ岡の恨みを忘
れてはいなかった。
秀忠は翌、元和3年にも上洛するが、5年にも上洛する。
元和5年6月2日、秀忠は上洛するとすぐ酒井忠世など重臣5人を集めて正則のことについて議
し、次のように申し渡すことを決めている。
「こたび、広島の城を私(わたくし)に増築せし事、大不敬の罪を逃るべからざるところ、陳謝の
言葉をつくすを以って、しばらく寛宥の御はからひあり、本丸を残し、その外ことごとく破却すべ
き旨仰せ下されたしに、陽に拝諾しながら、上石のみをとり去りて日月を遅延する事、もっとも重
科たれば、芸備両国を収公せられる」
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