『女城主・井伊直虎』 その21

『龍潭寺』

ドラマの方は迷走していますので、井伊谷観光を続けてみたいと思います。


龍潭寺は井伊家の菩提寺で、直虎はこの寺に出家して次郎法師と名乗っていました。

寺には享保15年(1730年)に祖山和尚がまとめた「井伊家伝記」など、井伊家について書か

れた古文書が残り、境内西側の墓地には、初代・共保から24代・直政までの井伊家歴代墓所や井

伊家と深く関わった人々の墓があります。

井伊家歴代墓所には直虎の五輪塔もあり、その右隣には直虎の母、左隣には直虎の許婚だった直親

の五輪塔が寄り添っています。

また、歴代墓所の近くには、直虎の母の兄で今川家と井伊家の架け橋となって虎松(井伊直政)を

守った、今川家出身の目付家老・新野左馬助の墓があります。

浜松龍潭寺山門
yo.浜松龍潭寺山門

龍潭寺の起源は行基が天平5年(733年)に開いた八幡山地蔵寺という寺で、元中2年(138

5年)に宗良親王の法名をとって冷湛寺となり、天文元年(1532年)に井伊直平が臨済宗に改

宗したのを機に龍泰寺と改められ、永禄3年(1560年)に井伊直盛の法名から龍潭寺と改名

され現在に至っています。

直虎の生きた戦国の世に、龍潭寺の住職をつとめ、次から次へと一族を襲う未曽有の危機から井

伊家を救おうと尽力した南渓和尚は、井伊直平の息子といわれてきましたが、龍潭寺の過去帳か

ら、実は養子であったといいます。

その南渓和尚は、直盛が桶狭間の戦いで戦死して、未亡人となった直虎の母のために、龍潭寺に

松岳院という庵を建てています。

永禄11年(1568年)11月9日に徳政令が実施されて失脚した後、井伊谷城を出て母とと

もにこの松岳院で暮らしたようです。

直虎の母は天正6年(1578年)7月15日に、直虎は天正10年(1582年)8月26日

に松岳院で亡くなっています。


龍潭寺には次のような秘話が伝わります。

永禄3年(1560年)の元旦、男子の誕生を切望した直親夫婦が南渓和尚に祈祷を依頼し、

今も龍潭寺に残る「世継千手観音像」に願掛けした翌年、虎松が生まれた。

虎松の父・直親は永禄5年(1562年)に殺害され、虎松とその母を自宅に引き取った新野左

馬助も、永禄7年(1564年)に戦死したため、一時期、虎松母子も松岳院で暮らしたといい

ます。


話は変わり、元亀3年(1572年)12月、三方原合戦に圧勝した武田軍は、翌年1月3日に

井伊谷に侵入して一帯を焼き払ったため、龍潭寺の堂塔は焼失し、井伊谷城付近の足切観音堂な

ども燃えたという。

このことを裏付けるように、龍潭寺に現存する伽藍はすべて江戸時代以降の建築なのです。

山門は明暦2年(1656年)、本堂は延宝4年(1676年)開山堂は元禄15年(1702

年)、井伊家霊屋は寛保2年(1742年)、稲荷堂は寛政8年(1794年)、庫裡は文化12

年(1815年)に建立されたことが棟札から判明しています。



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                   <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
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