『女城主・井伊直虎』 その22

『武田氏の駿河攻略』

武田信玄は永禄11年(1568年)12月6日、駿河攻略を果たすため甲府を出発した。

但馬守は井伊谷の城代として栄達にひたる余裕もなく氏真に駿府に呼び出され、命じられるまま、

今川勢の一翼を担って薩摩峠に出陣した。

だが12日、信玄の甲州勢は今川勢を撃ち破った。

直虎 015

そして翌日、駿府に乱入し、氏真は抗戦する軍勢も整わないまま、駿府を捨てて、忠人の朝比奈

氏を頼って掛川城に逃げ込んだ。

但馬守も必死に逃げて井伊谷に脱兎のごとく逃げ帰ってきた。

「それ見たことか」

直虎も井伊一族の者たちも、その体たらくを笑った。

信玄は簡単に駿河を掌中にした。今川氏の滅亡を誰でもが予測する。

一方、27歳の家康も自ら動いた。

永禄11年12月、家康は信玄が駿府に攻め入ろうとしていると聞き、遠州を経略しようと岡崎城

を出馬した。

『改正三河後風土記』は、次のように述べている。

まず井伊谷の城を攻めようと三河野田城(新城市)の城主・菅沼貞盈に案内役を命じた。

そもそも井伊谷城とは今川の被官である井伊信濃守直盛の居城だったが、直盛は永禄3年の桶狭間

での今川義元の最後と時を同じくして討ち死に。その一族の肥後守直親が遺跡を継いで城を守った

が、これも被官の小野但馬守にあえなく討たれ、幼児の虎松は三河方面に漂泊した。家康はこの月

の朔日、大井川辺(これは違うとの指摘があります)へ陣を張ったが、ここへ菅沼貞盈が参陣して

「この城(三岳城)は、はなはだ要害の地に築いた城なので、力攻めすれば空しく月日を費やし、

将兵も多く損ないましょう。私の一族に菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の3人がいますが、3人は

いずれも井伊谷の豪傑です。この3人に恩を施し味方に招けば、この城は戦わずして手に入りまし

ょう」

と申し上げた。

家康は

「その申すところ、もっともである」

として、井伊谷の近くまで馬を進められ、菅沼・近藤・鈴木の3人に知行の宛行状を渡した。

と記しています。

迫る家康の軍馬の音に小野但馬守は怯え、直虎は期待に胸を弾ませたことでしょう。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


20170617.jpg



                  <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ