「三方ヶ原の戦い」 その17
『二俣城を包囲』
危機を脱して浜松城に逃げ帰った家康だったが、武田軍の攻撃は、なおも激しく見附の台から
北に向かい、馬場信春は天竜川の左岸に陣して浜松方面を警戒し、信玄が率いる主力は天竜川
上流の磐田郡野辺付近を移動しており、武田勝頼・武田信豊・穴山梅雪などの一隊は、二俣城
を囲もうとしていた。
武田勝頼(1546-1584年)

二俣城は天竜市二俣町のはずれの大地にあり、西を天竜川、東を二俣川に囲まれて、自然の
濠を形づくり、なかなかの要害堅固の城であった。
天正7年、家康の長子・信康が、父から自刃を命ぜられたのは、この城であった。
この城は、もともとは今川氏の属城であったが、永禄11年に家康が遠江に侵入して以来、徳
川氏の手に帰し、遠江北部の山間地帯と浜松を結ぶ、交通上の重要な地位を占めていた。
家康も、信玄が浜松城を攻めるにあたって、先ずこの二俣城を狙うに相違ないと、この城の存
在を重視し、中根正照を主将に松平康安と青木貞治を副将として備えさせ、家康自身も手兵を
率いて浜松から馳せつけたのです。
しかし、武田軍の布陣を見ると、うかつには知づけなかった。
というのは、この時すでに、二俣城の周りには武田勝頼らの一隊だけでなく、先発隊として甲
斐を出た山県昌景が率いる軍勢が、三河侵略を終え、本隊と合流していたのです。
せっかく馳せつけた家康も、これでは引き返すより他はなかった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
危機を脱して浜松城に逃げ帰った家康だったが、武田軍の攻撃は、なおも激しく見附の台から
北に向かい、馬場信春は天竜川の左岸に陣して浜松方面を警戒し、信玄が率いる主力は天竜川
上流の磐田郡野辺付近を移動しており、武田勝頼・武田信豊・穴山梅雪などの一隊は、二俣城
を囲もうとしていた。
武田勝頼(1546-1584年)

二俣城は天竜市二俣町のはずれの大地にあり、西を天竜川、東を二俣川に囲まれて、自然の
濠を形づくり、なかなかの要害堅固の城であった。
天正7年、家康の長子・信康が、父から自刃を命ぜられたのは、この城であった。
この城は、もともとは今川氏の属城であったが、永禄11年に家康が遠江に侵入して以来、徳
川氏の手に帰し、遠江北部の山間地帯と浜松を結ぶ、交通上の重要な地位を占めていた。
家康も、信玄が浜松城を攻めるにあたって、先ずこの二俣城を狙うに相違ないと、この城の存
在を重視し、中根正照を主将に松平康安と青木貞治を副将として備えさせ、家康自身も手兵を
率いて浜松から馳せつけたのです。
しかし、武田軍の布陣を見ると、うかつには知づけなかった。
というのは、この時すでに、二俣城の周りには武田勝頼らの一隊だけでなく、先発隊として甲
斐を出た山県昌景が率いる軍勢が、三河侵略を終え、本隊と合流していたのです。
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最近はほかの用事が多くて、ポチ逃げですいません。
戦国時代、栄枯盛衰、悲しいけれど、歴史は真実の物語。
これからも、ますます楽しみにしています。
≧▽≦)/ポチ☆彡全部
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雫 さま
雫さん、こんにちは。
いつもありがとうございます!
歴史は史実が少ないので、史書の選択が難しいですね。
小説は大河ドラマみたいな小説も少なくありませんので、
何を楽しむのか、決める必要がありますネ^^
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歴史は史実が少ないので、史書の選択が難しいですね。
小説は大河ドラマみたいな小説も少なくありませんので、
何を楽しむのか、決める必要がありますネ^^