「長篠の戦い」 その24
『高天神城落城』
高天神城は標高218mばかりの高天神山に築かれた城で、天文年間は今川の部将・小笠原
春儀がおり、永禄・元亀の頃、徳川に属し、天正2年に勝頼の手に入っていた。
この高天神城は東遠江を制圧するための争地であったが、武田氏の衰退を見て、天正8年3
月家康は浜松を出発して、高天神城攻略にとりかかった。
高天神城

城将・岡部長教らは連署して書状を送り、援軍の派遣を懇請したが、いまや勝頼には後援の
力がなかった。
家康は5月、田中城外を蹂躙し、6月には高天神城外に放火し威嚇をしたりしていたが、勝
頼が出馬しないと見ると、10月、6ヶ所の砦を築いて城に迫り、みずからは馬伏塚に陣を
とって持久戦に持ち込んだ。
籠城には後詰の援軍が必要である。
だが岡部長教の高天神城で天正9年を迎えなければならなかった。
2月、勝頼は1万6千の兵を率いて伊豆に進出、北条氏の3万の軍と対峙したが、会戦にお
よばず甲府に引き揚げている。
伊豆から遠江には来れないのです。
高天神の城兵は力尽き、落胆し、せめて最期を飾ろうと、3月22日夜、決死の突撃を敢行
した。
そして城は陥り、688人はことごとく玉砕して、勝頼最後の拠点たる高天神城は落城した。
『信長公記』には「武田四郎(勝頼)は織田家の武威に恐れ、目の前で、甲斐・信濃・駿河
の歴々のものを、無数に高天神で干殺にさせ、しかも後援しなかったので、天下に面目を失
った」と記している。
武田家の末路は急斜面を直滑降するように迫ってきたのです。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
高天神城は標高218mばかりの高天神山に築かれた城で、天文年間は今川の部将・小笠原
春儀がおり、永禄・元亀の頃、徳川に属し、天正2年に勝頼の手に入っていた。
この高天神城は東遠江を制圧するための争地であったが、武田氏の衰退を見て、天正8年3
月家康は浜松を出発して、高天神城攻略にとりかかった。
高天神城

城将・岡部長教らは連署して書状を送り、援軍の派遣を懇請したが、いまや勝頼には後援の
力がなかった。
家康は5月、田中城外を蹂躙し、6月には高天神城外に放火し威嚇をしたりしていたが、勝
頼が出馬しないと見ると、10月、6ヶ所の砦を築いて城に迫り、みずからは馬伏塚に陣を
とって持久戦に持ち込んだ。
籠城には後詰の援軍が必要である。
だが岡部長教の高天神城で天正9年を迎えなければならなかった。
2月、勝頼は1万6千の兵を率いて伊豆に進出、北条氏の3万の軍と対峙したが、会戦にお
よばず甲府に引き揚げている。
伊豆から遠江には来れないのです。
高天神の城兵は力尽き、落胆し、せめて最期を飾ろうと、3月22日夜、決死の突撃を敢行
した。
そして城は陥り、688人はことごとく玉砕して、勝頼最後の拠点たる高天神城は落城した。
『信長公記』には「武田四郎(勝頼)は織田家の武威に恐れ、目の前で、甲斐・信濃・駿河
の歴々のものを、無数に高天神で干殺にさせ、しかも後援しなかったので、天下に面目を失
った」と記している。
武田家の末路は急斜面を直滑降するように迫ってきたのです。
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