「鳥取城の戦い」 その1
『信長の天下布武』
織田信長が天下布武をとげようとして、その眼を西に向けた時、祖父・毛利元就の中国制覇を
うけた毛利輝元は、両川、つまり吉川元春・小早川隆景の両伯父に守られ、東上を模索してい
た。
毛利輝元(1553-1625年)

毛利の東上と織田の西下と、両者の死闘が展開されることは、火を見るよりあきらかなことであ
った。
天正5年(1577年)10月、羽柴秀吉が信長の先鋒となって、播磨(兵庫)に入り、姫路城を
中心として動き出してからは、天正10年6月まで、およそ5ヵ年の間、秀吉の大軍と、毛利・両川
軍との間に、播磨・美作(岡山県)・備中(岡山県)・丹波(兵庫県)・但馬(兵庫県)・因幡
(鳥取県)・伯耆(島根県)の7ヵ国内で、大小幾多の戦国争乱が繰り広げられた。
いわゆる中国戦役です。
この中国戦役では、天正6年の播磨上月城の戦い、天正9年の因幡鳥取城の戦い、天正10年
の備中高松城の戦いが有名です。
秀吉が高松城の水攻めを決行し、まさに和睦をしようとしていたときに、京都で突然起こった大事
件が本能寺の変で、織田信長の天下統一の夢は消え去った。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
織田信長が天下布武をとげようとして、その眼を西に向けた時、祖父・毛利元就の中国制覇を
うけた毛利輝元は、両川、つまり吉川元春・小早川隆景の両伯父に守られ、東上を模索してい
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毛利輝元(1553-1625年)

毛利の東上と織田の西下と、両者の死闘が展開されることは、火を見るよりあきらかなことであ
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天正5年(1577年)10月、羽柴秀吉が信長の先鋒となって、播磨(兵庫)に入り、姫路城を
中心として動き出してからは、天正10年6月まで、およそ5ヵ年の間、秀吉の大軍と、毛利・両川
軍との間に、播磨・美作(岡山県)・備中(岡山県)・丹波(兵庫県)・但馬(兵庫県)・因幡
(鳥取県)・伯耆(島根県)の7ヵ国内で、大小幾多の戦国争乱が繰り広げられた。
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この中国戦役では、天正6年の播磨上月城の戦い、天正9年の因幡鳥取城の戦い、天正10年
の備中高松城の戦いが有名です。
秀吉が高松城の水攻めを決行し、まさに和睦をしようとしていたときに、京都で突然起こった大事
件が本能寺の変で、織田信長の天下統一の夢は消え去った。
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