「鳥取城の戦い」 その3
『天下布武の安土城へ』
天正4年(1576年)2月、織田信長は、岐阜城を嫡男・信忠に譲って、琵琶湖の南岸の、
まだ完成しない安土の城に移った。
安土城の天守閣は、およそ3年たって豪華絢爛な7層の天守であった。
安土城

信長は、尾張(愛知県)の那古屋(名古屋市)・清洲・小牧山から、美濃(岐阜県)の稲葉山
へ、そして近江(滋賀県)の安土城と、一歩ずつ歴史のひのき舞台へ駒を進め天下統一への道
を歩んだ。
すでに3年前に甲斐の武田信玄が西上の途中で病に倒れ、越前(福井県)の朝倉義景、
江北の浅井長政も、戦国争乱の歴史的舞台から消えていた。
また大坂の石山本願寺を総本山とする一向宗の一揆も、その有力な右翼であった伊勢(三重県)
長島が火焔に包まれたのは、天正2年のことであった。
明けて天正3年、三河(愛知県)の長篠で武田勝頼が主力を紛砕した今、反信長陣営は、前面
に本願寺、北に越後(新潟県)の上杉謙信、西に中国の毛利輝元の三者がもっとも強豪であっ
た。
これら三者の黒幕として、信長に追放された前の公方、足利義昭が紀伊由良の興国寺にあって、
伝統的な権威を背景に謀略を巡らしながら、時勢の移り変わりをじっと見つめていた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天正4年(1576年)2月、織田信長は、岐阜城を嫡男・信忠に譲って、琵琶湖の南岸の、
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安土城の天守閣は、およそ3年たって豪華絢爛な7層の天守であった。
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信長は、尾張(愛知県)の那古屋(名古屋市)・清洲・小牧山から、美濃(岐阜県)の稲葉山
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江北の浅井長政も、戦国争乱の歴史的舞台から消えていた。
また大坂の石山本願寺を総本山とする一向宗の一揆も、その有力な右翼であった伊勢(三重県)
長島が火焔に包まれたのは、天正2年のことであった。
明けて天正3年、三河(愛知県)の長篠で武田勝頼が主力を紛砕した今、反信長陣営は、前面
に本願寺、北に越後(新潟県)の上杉謙信、西に中国の毛利輝元の三者がもっとも強豪であっ
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これら三者の黒幕として、信長に追放された前の公方、足利義昭が紀伊由良の興国寺にあって、
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