「鳥取城の戦い」 その11
『三木の干殺し』
秀吉は、美嚢川を隔てた平井山に本陣を置いて、籠城する別所の自滅を待った。
別所は密使を毛利のもとへ送り、来援を乞うたが、加古川河口の高砂城を失ったいまは、水路
を利用しての援来も期待できず、城内の糧米は日に日に乏しくなっていった。
羽柴軍の平井山本陣(平井山本陣と半兵衛さんのお墓参り「こちら」です。)

翌天正7年2月5日、三木城内で軍議が開かれ、平井山の秀吉の本陣を壊滅して一挙に雌雄を
決しようとし、翌6日、2500余りの将兵が城を打って出た。
しかし、この作戦も別所軍の惨敗に終わった。
こうして6月になった。
秀吉の陣営では、病の身をおして参陣していた軍師・竹中半兵衛が死んだ。
時に35歳とも、36歳であったともいう。
三木の急を知った毛利は、幾度か兵糧を搬入しようとし、一度は成功したが、羽柴軍の陣立て
に失敗を重ねた。
天正7年9月に入ると、毛利は8千の軍夫を動員して大規模な兵糧輸送作戦を企て、三木城の
近くまで接近したが、平田の営を守る谷大膳亮にはばまれた。
この戦いで大膳は戦死したが、毛利もまた羽柴軍に追撃され、撫で切り討ち捨て、数を知らざる
状態であったという。
三木城の別所勢は兵糧の補給を完全に断たれ、草の根や木の皮はもちろんのこと、大切な軍
馬を殺して飢えをしのいだが、ついには絶食を余儀なくされに至った。
こうなっては戦う気力もなく、餓死か開城かの状態で、籠城2年目に入った。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉は、美嚢川を隔てた平井山に本陣を置いて、籠城する別所の自滅を待った。
別所は密使を毛利のもとへ送り、来援を乞うたが、加古川河口の高砂城を失ったいまは、水路
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翌天正7年2月5日、三木城内で軍議が開かれ、平井山の秀吉の本陣を壊滅して一挙に雌雄を
決しようとし、翌6日、2500余りの将兵が城を打って出た。
しかし、この作戦も別所軍の惨敗に終わった。
こうして6月になった。
秀吉の陣営では、病の身をおして参陣していた軍師・竹中半兵衛が死んだ。
時に35歳とも、36歳であったともいう。
三木の急を知った毛利は、幾度か兵糧を搬入しようとし、一度は成功したが、羽柴軍の陣立て
に失敗を重ねた。
天正7年9月に入ると、毛利は8千の軍夫を動員して大規模な兵糧輸送作戦を企て、三木城の
近くまで接近したが、平田の営を守る谷大膳亮にはばまれた。
この戦いで大膳は戦死したが、毛利もまた羽柴軍に追撃され、撫で切り討ち捨て、数を知らざる
状態であったという。
三木城の別所勢は兵糧の補給を完全に断たれ、草の根や木の皮はもちろんのこと、大切な軍
馬を殺して飢えをしのいだが、ついには絶食を余儀なくされに至った。
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