本能寺の変 その4
『丹波国への思い入れ』
明智光秀は美濃源氏土岐氏の庶流といわれます。
諸国を流浪した後、信長に仕え、公家や足利義昭らの間にあって、外交の手腕を発揮し、大い
に用いられていた。
丹波国亀山城(昭和5年)

この光秀が、いま軍事権を奪われた丹波国は、彼が武将として活躍した主要舞台で、天正3年
から天正7年(1575年)までの5ヵ年間、全国に出陣、転戦の合間をぬって攻略した思い
出の所領であったのです。
天正7年6月、丹波一の堅城といわれた八上城の波多野兄弟3人を調略で召捕り、8月、赤井
忠家が死守する黒井城を陥落させ、丹波一円討平を信長に報告すると、信長は
「永々丹波に在国候て粉骨、度々の高名名誉も比類なし」
との感状を与え、誉めた。
また、翌天正8年8月、信長は当時、近畿の大将的地位にあった佐久間信盛・信栄父子が、本
願寺攻略に積極的でなかったことを咎め、紀伊高野山へ追放した時の折檻状のなかで
「丹波国での日向守光秀の働きは、天下の面目をほどこした」
と述べている。
このように、光秀にとっては、忘れようにも忘れ得ない丹波国であったのです。
この丹波国で軍事権が発動できなければ、これから後、光秀はどうなるのか。
仮に出雲・石見両国をもらうにしても、それは毛利との決戦に勝ってからのことです。もし負け
たらどうなる。
たとえ勝ったにしても、遠い山陰に赴くことは、都慣れした光秀にとっては、耐えられないもの
であったでしょう。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
明智光秀は美濃源氏土岐氏の庶流といわれます。
諸国を流浪した後、信長に仕え、公家や足利義昭らの間にあって、外交の手腕を発揮し、大い
に用いられていた。
丹波国亀山城(昭和5年)

この光秀が、いま軍事権を奪われた丹波国は、彼が武将として活躍した主要舞台で、天正3年
から天正7年(1575年)までの5ヵ年間、全国に出陣、転戦の合間をぬって攻略した思い
出の所領であったのです。
天正7年6月、丹波一の堅城といわれた八上城の波多野兄弟3人を調略で召捕り、8月、赤井
忠家が死守する黒井城を陥落させ、丹波一円討平を信長に報告すると、信長は
「永々丹波に在国候て粉骨、度々の高名名誉も比類なし」
との感状を与え、誉めた。
また、翌天正8年8月、信長は当時、近畿の大将的地位にあった佐久間信盛・信栄父子が、本
願寺攻略に積極的でなかったことを咎め、紀伊高野山へ追放した時の折檻状のなかで
「丹波国での日向守光秀の働きは、天下の面目をほどこした」
と述べている。
このように、光秀にとっては、忘れようにも忘れ得ない丹波国であったのです。
この丹波国で軍事権が発動できなければ、これから後、光秀はどうなるのか。
仮に出雲・石見両国をもらうにしても、それは毛利との決戦に勝ってからのことです。もし負け
たらどうなる。
たとえ勝ったにしても、遠い山陰に赴くことは、都慣れした光秀にとっては、耐えられないもの
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