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本能寺の変 その21

『家康の岡崎帰還』

本能寺の変報は全国に乱れ飛び、変報を聞いた信長の諸将の動きは種々様々であった。

信長の二男・信勝は本領の伊勢にいたが、兵力が少なく、また光秀に応じる一揆の動きがあって、

積極的に動ける状況でなかったという。

岡崎城
ok.岡崎城1

北陸道の大将・柴田勝家は、上杉景勝の領国・越後に迫り、松倉城(富山県)を包囲していたが、

包囲を解き、せっかく取った魚津城も捨て、上洛しようとしたが、時すでに遅かった。

東山道の大将・滝川一益は、上野厩橋(前橋市)にあって、関東の経営にあたっていたが、新領

土の保有が大問題で、上洛などできるどころか、のち北条氏に攻められて、本領・伊勢長島(桑

名市)に逃げ帰ることになる。

東海道の大将・徳川家康は、5月21日に上洛し、29日に堺に遊び、6月2日の朝、変報を聞

くと、信長に面会のため上洛するといって、急いで堺をたち、伊勢越えをして岡崎に辿り着いた。

この伊勢越えは、非常に困難を極め、家康の生涯の中の危機であったという。

同行して堺に赴いた穴山梅雪は、帰途中に一揆に殺害されています。

家康は4日に岡崎に帰ると(居城は浜松)、甲斐・信濃の経略に乗り出し、機敏に活動を開始し

た。

また、14日に兵を率いて尾張に出陣し、上洛の構えを見せたが、その行動は緩慢で、後方を固

める考えが強い、家康らしい堅実さがあったという。



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robin 20180928



                  <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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非公開コメント

織田信勝よりも織田信雄の方がわかりやすいのではないか

信長の次男の名前ですが、信雄(のぶかつ)の方がわかりやすかいのではないでしょうか。信雄は、この時期には信意(のぶおき)か、信勝と名乗っていたようですが、その後、信雄に改名しているし、その名が一番知られているので、信勝(後に信雄)と書く方が親切ではないかと思います。信忠、信孝、あるいは叔父の長益に比べるとパッとしないというか、はっきり言えば、バカの信雄ですが、バカだから生き延びたと思われる側面もあって、あまり憎めない人物のように思います。

たんめん老人 さま

たんめん老人さん、こんにちは。

いつもありがとうございます。

確かに信雄が、有名ですよね!
小牧・長久手の戦いの主役だったからなのでしょうね。
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