小田原平定 その2
『家康、駿府城へ』
天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の合戦の勝利にもかかわらず、家康はこの合戦の
後、秀吉との対抗関係をすてて、秀吉の協力者として行動をはじめた。
駿府城 (駿府城の登城記は「こちら」です。)

天正14年、45歳となっていた家康は、3月9には伊豆三島で北条氏政と会見して東方の背後
を安全にし、5月14日には秀吉の異父妹の旭姫と結婚し、12月4日には17年間住み慣れた
遠江の浜松城を離れて、駿河の府中城(駿府城)に移った。
家康の駿府移転から15日後の12月19日、秀吉は太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜ってい
る。
翌、天正15年3月、秀吉は九州の島津義久を征伐するために、大坂城を出発し、5月8日には
義久を降伏させて、7月14日には大坂城に凱旋している。
この秀吉の九州征伐によって、西日本はすべて秀吉の支配下に収まっていた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の合戦の勝利にもかかわらず、家康はこの合戦の
後、秀吉との対抗関係をすてて、秀吉の協力者として行動をはじめた。
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天正14年、45歳となっていた家康は、3月9には伊豆三島で北条氏政と会見して東方の背後
を安全にし、5月14日には秀吉の異父妹の旭姫と結婚し、12月4日には17年間住み慣れた
遠江の浜松城を離れて、駿河の府中城(駿府城)に移った。
家康の駿府移転から15日後の12月19日、秀吉は太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜ってい
る。
翌、天正15年3月、秀吉は九州の島津義久を征伐するために、大坂城を出発し、5月8日には
義久を降伏させて、7月14日には大坂城に凱旋している。
この秀吉の九州征伐によって、西日本はすべて秀吉の支配下に収まっていた。
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