小田原平定 その51
『軍事力の相違』
小田原合戦は、なぜ秀吉の勝利=氏政・氏直らの敗北になったのか。
秀吉は、はじめから氏政らに勝てるという自信はもっていなかったのでしょう。
豊臣秀吉(1537-1598年)

それどころか、織田信雄や徳川家康らが、氏政らに内通しているという風説が、しばしば伝えら
れたほどに、秀吉方に常に不安はあったでしょう。
一方、氏政らは、箱根・小田原の地の利をたよって、必勝の自信に満ちていた。
それなのに、戦局の進展にともなって、秀吉は勝利への自信を深め、反対に氏政らは敗北の色が
濃くなっていったのです。
そして、ついに氏政らは、秀吉の軍門にみずからを投げ出さざるをえない結果となってしまった。
それは、一体なぜであったか。
一口にいえば、それは秀吉の軍隊と氏政の軍隊の軍事力の絶対的な相違でしょう。
秀吉の軍隊と氏政の軍隊とでは、その組織原理がまったく異なっていたのです。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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秀吉は、はじめから氏政らに勝てるという自信はもっていなかったのでしょう。
豊臣秀吉(1537-1598年)

それどころか、織田信雄や徳川家康らが、氏政らに内通しているという風説が、しばしば伝えら
れたほどに、秀吉方に常に不安はあったでしょう。
一方、氏政らは、箱根・小田原の地の利をたよって、必勝の自信に満ちていた。
それなのに、戦局の進展にともなって、秀吉は勝利への自信を深め、反対に氏政らは敗北の色が
濃くなっていったのです。
そして、ついに氏政らは、秀吉の軍門にみずからを投げ出さざるをえない結果となってしまった。
それは、一体なぜであったか。
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