小田原平定 その54
『酷評をうける氏政・氏直』
北条氏政は元亀2年(1572年)10月より、天正18年(1590年)7月のその自殺まで、
20年間関東に君臨した。
氏政は、天正8年(1590年)8月、家をその子・氏直に譲って隠居の身となったが、氏直が
若かったために、「大途」と呼ばれながら、実際には関東の政治を行っていたのです。
北条氏政(1538-1590年)

特に、天正10年(1582年)3月、武田勝頼が滅ぼされ、6月に織田信長が討たれてからは、
関東における後北条氏の地位はますます高められたために、氏政は、とても隠居などとのんきに
構えておられなかった。
中央における形勢の急激な変化は、後北条氏の安泰を許さなかったのです。
『小田原旧記』によると
4世氏政は、暗愚にして、老臣・松田入道が奸謀に迷はされ、国政を乱るといへども、なお氏康
の武徳によって、しばらく無事なり。5世氏直は、随分明察ありといへども、惜しいかな虚弱に
して、自らもっぱらにせざる過ちあるゆえに、遂に其家を失へり。
と述べられ、氏政・氏直は極めて悪評を浴びせられている。
また、『関八州古戦録』でも、氏政と氏直の評判はけっしてよくなく
氏政・氏直は、不器にして、いたずらに父祖の余栄に誇り、時機をわきまへず、その敵を考へず、
険に拠り、衆をたのみて、奇正虚実の策略を忘れ、茫然として、此くの如きの仕儀に及び、果た
して国家を失ふ。
と酷評されています。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
北条氏政は元亀2年(1572年)10月より、天正18年(1590年)7月のその自殺まで、
20年間関東に君臨した。
氏政は、天正8年(1590年)8月、家をその子・氏直に譲って隠居の身となったが、氏直が
若かったために、「大途」と呼ばれながら、実際には関東の政治を行っていたのです。
北条氏政(1538-1590年)

特に、天正10年(1582年)3月、武田勝頼が滅ぼされ、6月に織田信長が討たれてからは、
関東における後北条氏の地位はますます高められたために、氏政は、とても隠居などとのんきに
構えておられなかった。
中央における形勢の急激な変化は、後北条氏の安泰を許さなかったのです。
『小田原旧記』によると
4世氏政は、暗愚にして、老臣・松田入道が奸謀に迷はされ、国政を乱るといへども、なお氏康
の武徳によって、しばらく無事なり。5世氏直は、随分明察ありといへども、惜しいかな虚弱に
して、自らもっぱらにせざる過ちあるゆえに、遂に其家を失へり。
と述べられ、氏政・氏直は極めて悪評を浴びせられている。
また、『関八州古戦録』でも、氏政と氏直の評判はけっしてよくなく
氏政・氏直は、不器にして、いたずらに父祖の余栄に誇り、時機をわきまへず、その敵を考へず、
険に拠り、衆をたのみて、奇正虚実の策略を忘れ、茫然として、此くの如きの仕儀に及び、果た
して国家を失ふ。
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