奥州仕置 その34
『九戸政実討伐軍』
これまで形勢を観望していた南部領内の館主も、中央軍の出発とともに南部信直かたに付随し、
三戸・浄法寺・一戸・軽米と四方から九戸領を包囲したから、九戸政実は孤立に陥った。
とくに8月16日、精鋭を誇る蒲生軍3万が13段の陣立もいかめしく到来したことは、南部
軍の士気を高揚させたという。
蒲生氏郷(1556-1595年)

なお、7月には従来、直領となっていた志波・稗貫・和賀の3郡が信直に与えられた。
中央軍は三方から奥北に進んだが、海道を進んだ石田軍は本吉・気仙方面を鎮定、出羽に入っ
た上杉・大谷軍は仙北から胆沢・和賀に進んだ。
従って、九戸政実籠城の九戸本城に進撃したのは、奥州街道を北進した蒲生・浅野・井伊・堀
尾の諸隊で、その主力は蒲生氏郷の軍勢であった。
この仕置軍は8月23日和賀に到着し、9月1日には山中峠を越え、姉帯・根曾利城を攻略し、
9月2日には九戸の本拠宮野城に迫った。
政実とともに宮野に籠城した者は総勢5千人、兵器食糧ともに豊富であったという。
これに対して攻撃軍は、蒲生・浅野・井伊・堀尾の中央軍、南部利直の南部軍、それに出羽か
ら援軍に来た秋田・小野寺・戸次・仁賀保の諸隊、蝦夷地の松前氏の軍などであった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
これまで形勢を観望していた南部領内の館主も、中央軍の出発とともに南部信直かたに付随し、
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とくに8月16日、精鋭を誇る蒲生軍3万が13段の陣立もいかめしく到来したことは、南部
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蒲生氏郷(1556-1595年)

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中央軍は三方から奥北に進んだが、海道を進んだ石田軍は本吉・気仙方面を鎮定、出羽に入っ
た上杉・大谷軍は仙北から胆沢・和賀に進んだ。
従って、九戸政実籠城の九戸本城に進撃したのは、奥州街道を北進した蒲生・浅野・井伊・堀
尾の諸隊で、その主力は蒲生氏郷の軍勢であった。
この仕置軍は8月23日和賀に到着し、9月1日には山中峠を越え、姉帯・根曾利城を攻略し、
9月2日には九戸の本拠宮野城に迫った。
政実とともに宮野に籠城した者は総勢5千人、兵器食糧ともに豊富であったという。
これに対して攻撃軍は、蒲生・浅野・井伊・堀尾の中央軍、南部利直の南部軍、それに出羽か
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