厳島の戦い その2
『吉見正頼の挙兵』
天文22年、陶晴賢討滅の第一声は、石見津和野(島根県)三本松の城主・吉見正頼によって
あげられた。
大内義隆(1507-1551年)

吉見氏と陶氏は旧怨の関係にあったし、正頼は大内義隆の姉婿であったからです。
正頼は挙兵したものの、独力で晴賢と対決できないので、毛利元就の助けをしきりに求めたと
いう。
その頃、晴賢もまた使者を郡山に送って、毛利の出兵を要求してきた。
さすがの元就も迷ったという。
しばらく隠忍しようとしたが、元就の長子・隆元は強く反対して、
「正頼征伐に参加しれば、晴賢は喜ぶでしょう。しかし、正頼滅亡の後の中国で、晴賢の恐れ
るものは、当毛利家だけになります。非道な晴賢のことですから、必ず、難癖をつけるに相違
ありません。こうなったら、当家はもとより、両川も滅亡する運命におかれます」
と説いた。
隆元が両川といっているのは、弟の吉川元春と小早川隆景のことです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天文22年、陶晴賢討滅の第一声は、石見津和野(島根県)三本松の城主・吉見正頼によって
あげられた。
大内義隆(1507-1551年)

吉見氏と陶氏は旧怨の関係にあったし、正頼は大内義隆の姉婿であったからです。
正頼は挙兵したものの、独力で晴賢と対決できないので、毛利元就の助けをしきりに求めたと
いう。
その頃、晴賢もまた使者を郡山に送って、毛利の出兵を要求してきた。
さすがの元就も迷ったという。
しばらく隠忍しようとしたが、元就の長子・隆元は強く反対して、
「正頼征伐に参加しれば、晴賢は喜ぶでしょう。しかし、正頼滅亡の後の中国で、晴賢の恐れ
るものは、当毛利家だけになります。非道な晴賢のことですから、必ず、難癖をつけるに相違
ありません。こうなったら、当家はもとより、両川も滅亡する運命におかれます」
と説いた。
隆元が両川といっているのは、弟の吉川元春と小早川隆景のことです。
ランキングに参加しています
いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
- 関連記事
-
- 厳島の戦い その2 (2019/10/23)
- 厳島の戦い その1 (2019/10/22)
スポンサーサイト


