耳川の戦い その7
『宗麟、土持氏を征討』
大友宗麟は土持親成(延岡城)が島津氏へ乗り換えたことを聞き、薩摩からの援軍を予想して、
海陸から兵をさしむけた。
大友宗麟(1530-1587年)

土持親成は驚いて天正6年正月、丹生島城に使者をやり、佐伯惟教を介して野心を抱いていな
いことを陳弁した。
惟教もまた、妹の娘が親戚の妻になっていることから、親成の本心を究明して宗麟をなだめよ
うと試みたという。
しかし、それも旨くいかず、ついに惟教・志賀親教・田北紹鉄・田原親貫ら3万余りの大兵を
発し、土持の松尾城・行藤城を陥れ、親戚の養子相模守は自殺し、親戚もまた捕虜となり、豊
後の浦部で切腹させられている。
土持氏の遺領は大友氏領となり、惟教を無鹿城にとどめて政令を行なわせた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
大友宗麟は土持親成(延岡城)が島津氏へ乗り換えたことを聞き、薩摩からの援軍を予想して、
海陸から兵をさしむけた。
大友宗麟(1530-1587年)

土持親成は驚いて天正6年正月、丹生島城に使者をやり、佐伯惟教を介して野心を抱いていな
いことを陳弁した。
惟教もまた、妹の娘が親戚の妻になっていることから、親成の本心を究明して宗麟をなだめよ
うと試みたという。
しかし、それも旨くいかず、ついに惟教・志賀親教・田北紹鉄・田原親貫ら3万余りの大兵を
発し、土持の松尾城・行藤城を陥れ、親戚の養子相模守は自殺し、親戚もまた捕虜となり、豊
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