耳川の戦い その8
『宗麟の出陣』
土持氏征討の成功と島津氏の沈黙は、大友宗麟をして島津氏恐れるに足りずと軽視させること
となった。
大分駅前の宗麟公

これが伊東照眼の旧領回復も容易であると思わせることになった。
加判衆や角隈石宗など老臣らは、宗麟が伊東氏のために兵を出すことの危険を説いて反対した
が、宗麟は聞入れなかった。
ついに、10月を出陣の時と定め、豊後・豊前・筑前・肥後・日向・伊予の兵を徴集した。
その下旬、4万3千の兵を率いて臼杵を出発し、日向の無鹿城に至り、ここを本営とした。
まず柴田紹安・山田慶徳に三稜城を守らせ、斎藤内記らに坪屋城を守らせ、日向侵入の橋頭堡
とした。
ついで佐伯惟教・田北鎮周を追手軍の左右の先鋒として、高城に向かわせた。
高城は島津義久の将・山田新介が防衛している。
また別に志賀親教・志賀鑑隆・朽網宗歴・一万田鑑貫を肥後に派遣し、搦手軍として日向に攻
め込ませることとした。
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いつもありがとうございます。
robin去勢手術の抜糸が終わりましたので、お出かけしてきました。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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まず柴田紹安・山田慶徳に三稜城を守らせ、斎藤内記らに坪屋城を守らせ、日向侵入の橋頭堡
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高城は島津義久の将・山田新介が防衛している。
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