耳川の戦い その11
『戦術がない大友軍』
11日夜、大友軍では佐伯惟教・田北鎮周をはじめとする諸将は高城攻撃の戦術を議したが、
一致することはなかったという。
つまり惟教は進んで攻めるよりも敵の来襲を待ち、これを迎え撃つべしといい、鎮周はこれ
と逆に先鋒軍として強敵をも恐れず積極的戦法に出て強襲すべしというのであった。
角限石宗も惟教の戦術に賛成して鎮周の意見を止めたが、鎮周は明朝自分が先頭をきって戦
場で戦死しようといいきり、自分の陣営に帰ってしまった。
軍議が両巨頭の間においてまるで反対のまま対立し、妥協せぬまま明日、戦闘を開始すると
いうので、大友軍先鋒になかには、不安の気がみなぎったことでしょう。
両大将の不一致を憤慨して豊後の臼杵・柴田・斎藤という3人の武士は、ただちに子丸川を
渡って敵に撃たれ、戦死してしまった。
大友軍大敗のきざしはすでにここに予見されているかのようであった。
この間、大友宗麟は無鹿の本営に宣教師を伴い、祈祷にふけって、まるで戦争を忘れている
かのようであったという。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
11日夜、大友軍では佐伯惟教・田北鎮周をはじめとする諸将は高城攻撃の戦術を議したが、
一致することはなかったという。
つまり惟教は進んで攻めるよりも敵の来襲を待ち、これを迎え撃つべしといい、鎮周はこれ
と逆に先鋒軍として強敵をも恐れず積極的戦法に出て強襲すべしというのであった。
角限石宗も惟教の戦術に賛成して鎮周の意見を止めたが、鎮周は明朝自分が先頭をきって戦
場で戦死しようといいきり、自分の陣営に帰ってしまった。
軍議が両巨頭の間においてまるで反対のまま対立し、妥協せぬまま明日、戦闘を開始すると
いうので、大友軍先鋒になかには、不安の気がみなぎったことでしょう。
両大将の不一致を憤慨して豊後の臼杵・柴田・斎藤という3人の武士は、ただちに子丸川を
渡って敵に撃たれ、戦死してしまった。
大友軍大敗のきざしはすでにここに予見されているかのようであった。
この間、大友宗麟は無鹿の本営に宣教師を伴い、祈祷にふけって、まるで戦争を忘れている
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