長宗我部元親の四国制覇 その6
『細川義賢の戦死』
細川持隆が殺された後、阿波は完全に三好氏に牛耳られることになった。
阿波国徳島城

『十河物語』には
「屋形(細川持隆)には御子一人もなかりき、さて屋形の御台を実体妻となし、この御腹に若君
ただ一人出来れり。長治と申す」
と書かれており、持隆には子供はなかったとしているが、実は真之(さねゆき)・祝英らの子が
あった。(『細川家記』)
とにかく義賢は簒奪の汚名をこうむるのに気が引けたのか、細川真之をいちおう主と仰ぐことと
したが、有名無実でもちろん実権は義賢の手にあった。
しかし、しだいに三好の反対者の活動も盛んとなり、義賢は弟・冬康が畠山隆政に攻められたの
を救うために、和泉に出兵したが、戦死してしまった。
そのため、義賢の後を長治が継いだ。
この長治の時代に、長宗我部元親の阿波への侵入が始まった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
細川持隆が殺された後、阿波は完全に三好氏に牛耳られることになった。
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ただ一人出来れり。長治と申す」
と書かれており、持隆には子供はなかったとしているが、実は真之(さねゆき)・祝英らの子が
あった。(『細川家記』)
とにかく義賢は簒奪の汚名をこうむるのに気が引けたのか、細川真之をいちおう主と仰ぐことと
したが、有名無実でもちろん実権は義賢の手にあった。
しかし、しだいに三好の反対者の活動も盛んとなり、義賢は弟・冬康が畠山隆政に攻められたの
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