長宗我部元親の四国制覇 その24
『伊予の歴史』
伊予は古代以来、郡司から土豪化したといわれる河野氏が本拠としたところで、弘安の役(第
2次蒙古来襲)の河野通有や、南朝方として戦った土居(温泉郡)・得能(周桑郡)の両氏と
もその一族であった。
弘安の役(第2次蒙古来襲)

四国の名族として勢力をふるったが、南北朝の内乱期には河野通盛が北朝方として活躍し、南
朝方の忽那義範をはじめ、村上・土居・得能氏らと対立した。
懐良親王の下向、脇屋義助(新田義貞の弟)の入国などがあり、伊予は南朝方の一拠点となっ
たので、通盛は圧迫されたが、北朝方の重鎮としての地位を保ち、次第に勢力を挽回した。
建武年間は道後に湯築城を築き、ここを本拠として守護大名への発展の基を定めた。
しかし、阿波・讃岐・土佐が細川氏の守護領国となってからは、東伊予は細川氏の侵攻をうけ、
次第にその勢力下にはいった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
伊予は古代以来、郡司から土豪化したといわれる河野氏が本拠としたところで、弘安の役(第
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弘安の役(第2次蒙古来襲)

四国の名族として勢力をふるったが、南北朝の内乱期には河野通盛が北朝方として活躍し、南
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懐良親王の下向、脇屋義助(新田義貞の弟)の入国などがあり、伊予は南朝方の一拠点となっ
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建武年間は道後に湯築城を築き、ここを本拠として守護大名への発展の基を定めた。
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