長宗我部元親の四国制覇 その25
『河野氏』
応仁の乱が勃発してから、伊予も戦乱の渦中に巻き込まれ、河野氏の内訌や土豪の自立化が起
こり、勢力分野にも変動が生じた。
湯築城

河野氏は湯築城を根拠として、温泉・周桑・越智の各郡を支配し、北伊予に発展したが、中部
の伊予・喜多・浮穴の諸郡では、鎌倉時代に下野より移って土着したといわれる宇都宮氏が台
頭し、地蔵嶽城(大洲城)を中心として周辺の土豪を傘下に収めていた。
応仁の乱では、湯築城主・河野教通や宇都宮家綱らは西軍の山名方に属し、河野分家の道春は
東軍の細川方に応じた。
これは河野教通の祖父・道之が細川氏にうとんぜられ、道春の祖父・道之が細川氏に優遇され
たという古い恩怨が原因であったという。
とにかく河野氏は分裂して争うこととなり、教通は西軍の有力な部将であった大内政弘と結託
して、応仁元年7月には東上し、東軍の赤松政則の軍を破るなど、一時は勢いをふるったが、
戦火が地方に広がるにつれ、伊予国内の抗争も激しさを加えることとなった。
文明11年(1479年)には阿波・讃岐を支配していた細川義春が伊予に侵入したが、河野
教通麾下の部将がよく戦い、桑村・風早郡内での戦いで勝利を収め、撃退することができた。
しかし、河野家の内紛が続き、通春は文明14年に湊山で戦死してしまった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
応仁の乱が勃発してから、伊予も戦乱の渦中に巻き込まれ、河野氏の内訌や土豪の自立化が起
こり、勢力分野にも変動が生じた。
湯築城

河野氏は湯築城を根拠として、温泉・周桑・越智の各郡を支配し、北伊予に発展したが、中部
の伊予・喜多・浮穴の諸郡では、鎌倉時代に下野より移って土着したといわれる宇都宮氏が台
頭し、地蔵嶽城(大洲城)を中心として周辺の土豪を傘下に収めていた。
応仁の乱では、湯築城主・河野教通や宇都宮家綱らは西軍の山名方に属し、河野分家の道春は
東軍の細川方に応じた。
これは河野教通の祖父・道之が細川氏にうとんぜられ、道春の祖父・道之が細川氏に優遇され
たという古い恩怨が原因であったという。
とにかく河野氏は分裂して争うこととなり、教通は西軍の有力な部将であった大内政弘と結託
して、応仁元年7月には東上し、東軍の赤松政則の軍を破るなど、一時は勢いをふるったが、
戦火が地方に広がるにつれ、伊予国内の抗争も激しさを加えることとなった。
文明11年(1479年)には阿波・讃岐を支配していた細川義春が伊予に侵入したが、河野
教通麾下の部将がよく戦い、桑村・風早郡内での戦いで勝利を収め、撃退することができた。
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